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2009年05月20日

屯倉を探る(2)~中央集権化に先駆けた徴税システム~

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こんにちは、みっちーです☆⌒(*^∇゜)v
前回の『屯倉を探る(1)~屯倉は大和朝廷の地方支配拠点~』に引き続き、
今回も屯倉シリーズをお送りしたいと思います。
>次回は、屯倉にいた大和朝廷の影の存在基盤とは誰か?
>そして、屯倉は実際にどんな役割を担っていたのか?について追求してみたいと思います。
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まず屯倉にいた大和朝廷の影の存在基盤を明らかにする上で、
屯倉での流通品を調べることからアプローチしていきたいと思います。
◆屯倉の朝鮮系渡来人による活躍
屯倉での流通品=地方から大和朝廷への貢納品としては、(1)稲、(2)食料品、(3)衣料品(4)鉄、(5)貴重品が上げられています。(るいネット:屯倉を紐解く③~徴税品目編~)これら屯倉における貢納品の管理には、帳簿管理(文字と算術)が必要となり、また屯倉での稲作のための開墾・灌漑工事や製鉄etcには先端の技術が欠かせません。
その先端の技術をもたらしていたのが、朝鮮からの渡来人なのです。
代表的な渡来人としては、秦(はた)氏が上げられます。
秦氏は土木工事(灌漑)の技術の多くをもたらしたとされています。一説では中国戦国時代の秦の灌漑工事の技術の伝統を継承していたものとも言われています。深草屯倉、茨田(まんだ)屯倉の開拓や、現代にも残る渡月橋で有名な桂川にある葛野大堰 などの治水工事も秦氏によるものとされています。他にも優れた養蚕技術(機織りのハタ由来)や、財政官(大蔵省)にも任官されたことから、記録などの文字使用技術や算術にも明るかったとされています。
大和朝廷は、先端の技術を持った渡来人を意図的に屯倉に移住させていきます。これは、朝鮮半島由来の韓式土器(4世紀末~5世紀頃)が多く発掘されている地域が、①河内②奈良③吉備・筑紫と屯倉の設置された地域と一致していることからも推測されます。
◆中央集権化を進めた蘇我氏
そして大和朝廷で渡来人を支配し、屯倉を管理していたのが蘇我氏でした。
渡来人は先端の技術を持っていたため、その支配権は時々の最有力氏族が握っていました。大和朝廷では当初渡来人を支配していたのは葛城氏でしたが、大伴氏が葛城氏を打ち倒し、さらにその大伴氏を物部・蘇我氏が打ち倒すことで、蘇我氏に支配権が移っていたのです。
蘇我氏は渡来人の先端の技術(帳簿技術等)を用いて、財政を担当していきます。『古語拾遺』雄略天皇段には、蘇我麻智宿禰(そがのまちのすくね)が三蔵(みつのくら)(斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら))の検校(管理・監督)に任命されたとあります。(斎蔵とは神宝や祭器を収めた倉、内蔵とは朝鮮諸国からの貢納物を収めた倉、大蔵とは国内からの貢納物を納めた倉とされています。)
財政を任されていた蘇我氏は、配下の渡来人を駆使してさらに全国に屯倉を拡大します。これにより蘇我氏は大和朝廷の地方支配を確立し、中央集権化を目指していきます。
◆屯倉による新たな徴税システム
では、大和朝廷(蘇我氏)が目指した屯倉による中央集権化とは何か?
それは、屯倉を利用した地方豪族への徴税の要請(命令)と、戸籍管理による徴税システムの構築にあります。
まず屯倉による地方豪族の監視及び徴税の要請(命令)については、大化の改新以前の大和朝廷の体制が参考になります。(各用語の説明は、るいネット:屯倉を紐解く②~中央集権を進めた地方拠点~を参照して下さい。)
     大王
   |
   ├-----┬----┐
   |    (最有力氏族)
   |     大連   大臣---┐
   |     |    |    |
        (有力氏族)     |
   伴造    伴造   伴造   宰-----┐
   |     |    |   (屯倉)   |
   |     |    |    |     |
   |     |    |   (地方豪族) |
   |     |    |    国造    |
   |     |    |    |     |
   伴緒     伴緒   伴緒   伴緒   田令
   |     |    |    |     |
   部民    部民   部民   部民    部民
(職業部、名代)(部曲) (部曲) (部曲)  (田部)
   |     |   |     |     |
   奴婢    奴婢  奴婢    奴婢    奴婢
<       中央       ><   地方   >
大和朝廷は厄介な地方豪族の支配拠点として、屯倉を設置していきます。大和朝廷は屯倉による地方豪族の監視や、さらに宰(みこともち=大和朝廷の使者)等を派遣して、地方豪族への徴税の要請(命令)を行っていきました。
また徴税システムとしては、新たに戸籍管理が導入されたことが記録に残っています。
欽明天皇十六年(555)七月に、大臣の蘇我稲目が吉備の五郡に白猪(しらい)屯倉を設置します。さらにその翌年には備前に児島屯倉を設置し、葛城山田瑞子を田令(たづかい)に任命します。 しかし屯倉の設置から十数年後には、課税を逃れようとするものが多くなってきます。そのため、欽明天皇三十年(569)には胆津を遣わして戸籍を整備したと日本書紀に記載されています。
このように地方に屯倉を設置することで、地方の監視だけではなく徴税の仕組みを強化していきます。特に綿密な戸籍を基にして課税する徴税方式は、後の律令制度に繋がる新たな支配方式となっており、中央集権化の礎となっていったのです。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
参考書籍:ヤマト王権と渡来人(花田勝広・大橋信弥著)
       古代国家の形成(直木孝次郎著)
       歴史の中の天皇(吉田孝著)
       天皇家の誕生(井上辰雄著)

投稿者 staff : 2009年05月20日 List  

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コメント

大学の講義でちょうど古代ギリシャにおける教育について学んでいたのでとても参考になりました。
どうして教育の必要性が出てきたのかそのルーツを考えていたのですが、その一つとしてアルファベットの登場、そして民会などの政治参加の場で教養が必要とされてきたんですね。

投稿者 匿名 : 2011年5月22日 15:54

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