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2009年05月21日

平氏も源氏も、もとは皇族【平氏は百済系、源氏は新羅系か?】

武家といえば『源・平』がまっさきに頭に浮かびますが、彼らの出自はともに西国の皇族であったという事実は押さえておかなければなりません。
   半月城通信 《参照、一部編集》

源氏、平氏の出身はよく知られるように、増えすぎた皇族の処遇から生まれました。そのさきがけは桓武天皇でしょうか。桓武天皇は「朕の外戚は百済」と公言していた天皇ですが、桓武天皇には数十人の妻がおり、たいへんな子だくさんでした。そうしたおおぜいの子孫をいつまでも皇族として待遇していたのでは、ねずみ算式に皇族が増え、財政的に困難になりかねません。そこで天皇は一部の子孫を皇族からはずし、平氏という皇族賜姓を与えました。
具体的にいうと、桓武天皇の子である葛原(かつらはら)親王の子に高棟(たかむね)王と高見王がいたのですが、高棟王が初めて平氏の姓を与えました。したがって平氏の本宗家は高棟王系にあたり、平家の氏社である京都の平野神社の祭祀をつかさどりました。

 
 

一方、高見王系は、その子である高望(たかもち)王が平氏の姓を得ました。さらに、高望王の孫で、平将門の乱の鎮圧に功のあった平貞盛の子である維衡(これひら)の系統が伊勢・伊賀地方に所領を得て伊勢平氏となり、平家ではもっとも栄えました。
伊勢平氏は、平安末期に正盛・忠盛父子が白河・鳥羽両院政下の軍事担当武門として台頭し,忠盛の子である平清盛の代に保元・平治の乱(1159)で勝利をおさめ 、「平家にあらずんば人にあらず」とされるほどの平家の全盛時代を築きました。

 ここまででも、平氏は百済系といえそうですが、もう少し詳細に押さえておきたいと思います。
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さて、本題の百済との関連ですが、そのキーは桓武天皇の母にあります。桓武天皇の子の平城天皇も、葛井(ふじい)氏の女(葛井氏は百済系渡来氏族。阿保親王の母)を妻とし、その弟の嵯峨天皇も百済王氏の女の何人かを妻として 忠良親王・基良親王・基子内親王・源定・源善姫・源若姫などを、また仁明天皇も百済王氏の女とのあいだに高子内親王をもうけています。   

この時代、天皇は百済系渡来人の子孫を重用し、その力を存分に活用したことが『続日本紀』に記されました。しかし、その皇室から派生した平氏に、ただ単に百済系の血が混じっているからといって、すぐそれを百済系と決めつけるわけにはいきません。問題はかれらの精神的よりどころがどうであったのかが重要です。それを判断するには、平氏があがめた信仰の対象を分析してみるのがふさわしいのではないかと思われます。そこで平氏の氏社である平野神社の性格が焦点になるのですが、同神社の祭神について『世界大百科事典』(日立デジタル平凡社)はこう記しました。

【平野神社】

京都市 北区 平野宮本町に鎮座。今木(いまき)神,久度(くど)神,古開(ふるあき)神,比咩(ひめ)神をまつる。794年(延暦13)平安遷都により,それまで大和国各所に奉斎されていた今木神,久度神,古開神を遷座,それに比咩神を加え奉斎した社。祭神について諸説があるが,今木神は今来(新来)神であり,桓武天皇の母高野新笠(たかののにいがさ)(天高知日之子姫尊)の先祖 百済国 聖明王で,久度神は、さらにその遠祖 仇首(くど)王,古開神は古と開,すなわち始祖 温祚王の兄である沸流(ふる)王と肖古王とのことで,桓武天皇外戚祖先にあたるその三神に比咩神をあわせ奉斎したとの説がいちばん妥当とみられる。

 

このように、平野神社は百済国の王を祭神にしていたようなので、やはり平氏の精神的支柱は、少なくとも初期のころは百済であったといえるのではないかと思われます。ただ、平安末期の平清盛の時代になると、平氏の氏社は安芸の厳島神社が主になるので、百済とのつながりは希薄になっていくばかりでした。

他方の源氏ですが、この氏族は嵯峨天皇の代の嵯峨源氏が始まりで、これもやはり皇族賜姓になります。嵯峨源氏は多彩で、一族のなかでも源融(とおる)は『源氏物語』に登場する光源氏のモデルになりました。そうかと思うと、おちぶれた嵯峨源氏の中には、後に九州で松浦党をつくって倭寇になったりする者もいました。

時代はくだって、嵯峨天皇の四代後に清和天皇が即位しましたが、このとき誕生した清和源氏の系統は後に鎌倉幕府を開くなど新たな歴史を切りひらくことになりました。その主流は源頼信にはじまる河内源氏です。頼信は、上総で平忠常の乱(1028)を平定したのを皮切りに、その子の頼義、孫の義家は前九年・後三年の役に勝利し、関東・東国に勢力を扶植して多くの坂東武士をその傘下に組み入れました。   
義家の子孫からは新田氏・足利氏・今川氏・吉良氏などが派生しました。また、 義家の弟の義光からは武田氏や佐竹氏、南部氏などが輩出されました。鎌倉幕府を開いた源頼朝も河内源氏の後裔にあたります。   

さて、源氏の精神的支柱ですが、最初は平家と同じ平野神社を信仰していたようで、『世界大百科事典』には「平野神社は、平,源,高階,清原,中原,大江,菅原,秋篠氏などの氏神とされた」と記されています。
しかし、武家の頭領としての基礎を築いた源頼信が、京都にある石清水(いわしみず)八幡宮に加護を立願して願文を納めて以来、八幡神が源氏の有力な氏神になりました。石清水八幡宮は、豊前の宇佐八幡宮を勧請した神社ですが、もとは新羅からの渡来神を祀ったのが始まりでした。
源頼信の子の頼義は、石清水八幡宮を相模地方に勧請し、鶴ヶ岡八幡宮の起源としました。頼信の孫である義家は、石清水八幡宮で元服をしたので八幡太郎義家と名 のりました。

ところがどうしたことか、義家の弟である義光は、近江・三井寺の守護神である新羅善神堂で元服をし、新羅(しんら)三郎義光と名のりました。これは明らかに新羅を認識しての行為と思われます。義光の元服がもとになり、日本全国各地に新羅神社が建てられました。その数は十社はくだらないようです。

東国においては、出雲族が先行して融合していたと思われます。
だからこそ、新羅系の源氏が、東国において力を持ちえたのではないでしょうか?
いずれにしろ、武士階級は私権力を行使する階級であり、その出自が略奪経験を持つ半島敗北部族であるということは記憶に留めておく必要があります。

投稿者 naoto : 2009年05月21日 List  

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投稿者 武道通信 : 2009年12月8日 13:43

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