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2008年10月29日

『壬申の乱』の真実から天武天皇の出自に迫る


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『壬申の乱』と言えば672年に起きた王位継承をめぐる日本古代最大の内乱と言われています。

天智天皇が本来なら弟である大海人皇子こと天武天皇を次期大王とするところを、我が子である大友皇子(弘文天皇)を後継者にと画策したことが壬申の乱の引き金となります。

この当たりまでは教科書で習って覚えている方もいるかもしれませんが、真実は少し違っていたようです。

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まずは、一般的に言われている『壬申の乱』の原因をもう少し突っ込んでみたいと思います。

壬申の乱が起きる9年前(663年)のことです。
当時、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍と百済の戦いが行われており、百済の要請を受け朝鮮出兵を行います。これが『白村江の戦い』です。

その白村江の戦いで大敗を喫した天智天皇は、唐や新羅の侵略を恐れ、国防施設を玄界灘や瀬戸内海の沿岸に築き、667年に都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江へと移しました。

これらの動きは、豪族や民衆に直接、間接的に新たな負担を与えることとなり、豪族の間では不満が蓄積されてきます。

一方、天智天皇は、太政大臣を新設し、大友皇子を任命します。
これによって、弟である大海人皇子よりも血を分けた自分の子供である大友皇子を後継者とする意思を周囲に表明したのです(※同母兄弟間で皇位継承が行われる当時の慣例を無視したものだったのです)。

後に、病床に着いた天智天皇は、大海人皇子を枕元に呼びだし後事を託しましたが、大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、天皇のために出家を申し出ました(※おそらく、大海人皇子は身の危険を察知して身を引いたと思われます)。

ここまでであれば、壬申の乱に至らなかったと思われます。
大友皇子が大海人皇子の暗殺を企てます。これを察知した大海人皇子が、不満を蓄積していた豪族とともに逆襲に討ってでます。
これが『壬申の乱』の原因であると一般に言われています。

■□■では、本当は原因はどうだったのでしょうか?■□■

まずは、『白村江の戦い』から『壬申の乱』前後の国内及び東アジア(中国、朝鮮半島)の情勢をもう少し見ていく必要があります。(参考:日本人および日本の誕生〈付属年表〉












618年唐の統一
659年新羅と倭国が断交
660年唐・新羅の連合軍が百済を攻撃
662年百済救援の為に倭国から大軍が派遣
663年白村江の戦い(百済が滅亡)
668年唐により高句麗が滅亡(→唐と新羅が緊張関係に)
天智天皇即位
新羅と倭国が国交回復
670年唐からの使者(天智天皇の亡くなる1ヶ月前の671年にも使者)
672年壬申の乱
673年天武天皇即位
674年唐が新羅を攻撃
675年新羅が旧百済合併
676年新羅の半島統一

注目すべきは新羅の立場です。
百済討伐のために唐と手を結んでいましたが、668年に唐により高句麗が滅亡させられてことによって、朝鮮半島の情勢は一変します。
それまで親唐の立場にあった新羅は一転して、高句麗及び百済の反唐勢力を援け、唐と対立し戦闘を仕掛けます。

一方、唐は新羅に対抗すべく日本(倭国)との連携を目論み670年頃から使者を送っていますが、日本(天智天皇)は武器を与えただけで追い返してしまいます。

この事実を知ると国内情勢に何が起こっても唐の干渉がないと判断した大海人(天武天皇)は、自身の暗殺を企てた天智天皇・大友皇子の勢力を打倒を目指して、不満を蓄積させていた親新羅派豪族の支持をうけ壬申の乱を決意するのです。

親新羅(反唐)だったという理由は、「壬申の乱」以降、20年余りにわたって遣新羅使は8回も行なわれているが、遣唐使は30年間も行なわれていないことを以って説明がつきます。

つまり、壬申の乱とは「新羅と百済の代理戦争」であった側面が強いようです。

■□■天武天皇の出自は?■□■

疑問に残る点としては、何故、大友皇子は出家している大海人皇子を討伐を企てる必要があったのか?
やはり、大海人皇子こと天武天皇の出自に関係があるのではないでしょうか?

天智天皇と天武天皇(大海人)が同父同母の兄弟であり、天智が兄で天武が弟であるということはほとんど周知の事実ですが、この兄弟というのがそもそも捏造されているように思います。

①年齢矛盾(没年齢から計算すると天武の方が年上)
日本書記には、神武から持統までの40代(弘文天皇を入れれば41代)の天皇が登場しているが、年齢が不明なのは天武だけとなっています。
実際に、『本朝皇胤紹運録』という本の記述等を根拠に計算すると、弟だとされている天武の方が年上になる、という有力な説があります。

②皇室の祭祀において天武系の天皇は除外
『続日本紀』に拠ると、桓武天皇以後、山陵の奉幣は天智から間を飛ばしてすぐに光仁天皇となり、天武系の諸天皇の奉幣は、平安時代以降は全く確認できず、また現在でも、天皇家の事実上の菩提寺である泉涌寺において位牌が置かれているのは、天智の次は間を飛ばして光仁となり、同様天武王朝(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、(称徳))8人の位牌はありません。

③大海人皇子の初登場が遅すぎる
天智天皇の弟であれば、乙巳の変や白村江の戦いなどの重要局面で、大海人は登場するはずですが、書記においては登場していません。
大海人皇子が活躍が目立つようになるのは大津遷都以後となります。

④天智の実の娘が4人も天武に嫁いでいる
弟・姉妹・従兄弟通しでの「近親婚」が珍しくなかったとは言え、「弟」が「兄」の娘を四人もめとるというのは異常な気がします。
また、天智天皇と命運を共にした藤原鎌足も2人の娘を妃に出しているのです。
これは、戦国時代のように互いの娘を相手方の男子に嫁がせ「同盟」を結んだようなものです。

以上のことから天智天皇と天武天皇は兄弟ではなく、天武天皇出自は白村江の戦い以降に新羅(?)から来た高官であったと思われます。

そして、天智の実の娘が4人も天武に嫁いでいることからも、天智天皇は新羅系の天武天皇を恐れていたことが伺えます。それは天智天皇亡き後、大友皇子になっても同様であったと思われます。

ですから、出家したのちの大海人(天武天皇)暗殺を企てるのは納得いきますし、そもそも出家したこと自体も捏造であった可能性すらあります。

また壬申の乱672は新羅が唐と戦った翌年に起こっている。
新羅が唐と戦乱を起こしている間を狙って天智天皇が天武勢力を解体するために壬申の乱は起こされたのではないか?
天武=新羅の高官説?はこの辺りからも浮上してくる。

つまり、天武天皇の出自は新羅であったと考えれば説明がつくように思われます。

長文にお付き合いありがとうございました。m(_’_)m




参考書籍ヤマト国家は渡来王朝(新泉社/澤田洋太郎著)
参考サイト新説・日本の歴史第14弾「天智天皇の真相」
夢幻と湧源「砂川史学…①大海人皇子(1)」


by 村田頼哉

投稿者 yoriya : 2008年10月29日 List  

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コメント

古墳がほぼこれで解明できそうですね。!!
すごいです。
残る課題はなぜ急激に古墳がなくなったのか?
確かに薄暮令は出ましたが・・・。
また、必ず古墳の近くにある神社との関係は何か?そこにメスを入れていきたいですね。

投稿者 案山子 : 2008年11月25日 12:45

案山子さんコメントありがとうございます。
>古墳がほぼこれで解明できそうですね。!!
そうですね、ネットで調べたらいろいろ資料があって非常に助かりました。引用させていただいた方々に感謝してます。先人の努力の積み重ねってありがたいですね。
>残る課題はなぜ急激に古墳がなくなったのか?
銅鐸から古墳に変って、次に古墳がなくなって神
社や寺に変っていくのも気になってます。またその辺調べてみたいですね。
ところで薄暮令って何ですか?

投稿者 Hiroshi : 2008年11月26日 23:17

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