2008年10月14日
2008年10月14日
記紀捏造~天皇家(天武)は物部家から皇位を簒奪した
こんにちは「怒るでしかし~」と申します。こちらのブログへの投稿は初めてとなりますが、宜しくお願いします。
記紀編纂の謎ですが、ひとつには記紀が共通とした歴史捏造行為は何か、そして紀記の違いは何か(日本書紀が更に徹底して隠蔽しようとしたことは何か)という二本立てで考えていく必要がありそうです。今日は、記紀共通の捏造行為についてみてみたいと思います。
記紀捏造の鍵を握っているのは、物部氏から天皇家への権力委譲(簒奪)にあるようです。
以下は、堀貞雄さんという方のHPからです。
http://members3.jcom.home.ne.jp/horisadao/page005.html
>『唐会要』倭国・日本国伝(には以下のような記載がある)
>日本国の国号は、則天武后(624~705年)の時代に改号したという。日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの国名が優雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国は(倭国とは無関係ではと)疑う。
>このように唐王朝も従来の倭国と日本国の関係に疑問を感じており、『倭の五王』の時代の倭国と、新生日本国は関連性がなかったことをうかがわせる。なにはともあれ、唐の先進的な統治制度に習った律令国家とするためにも、王朝の歴史を記録した『正史』の編纂が必須とされた。
>ただし、天武天皇は正統な天皇であり、天武朝廷につながる代々のヤマト王朝が信奉した神の系譜につながる神々だけが日本国の正統な神であること。これを明記することが『天皇家の正史』の絶対的要件だった。その根拠は、天武天皇が皇位簒奪者ではないことを説明するのに『日本書紀』は最大のページ数を費やしており、大海人皇子は皇太弟(こうたいてい)に任じられたとするのも『日本書紀』の創作だとされる。
>『日本書紀』天武天皇の十年(682年)条(には以下のようにある)
天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。
>また持統天皇の五年(691年)条(には以下のようにある)
大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。
>このように『記紀』の編纂に先立って、「帝紀」や墓記(氏族史)に類する歴史書を作成させているが、ほとんどが現存しない。後世、多くの氏族が秘匿していた残存記録を元に系譜を復元したようだが、上古の系譜が不鮮明な家系が多いのは、提出された纂記を焼却したことが原因だと推察される。
投稿者 staff : 2008年10月14日 Tweet