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記紀捏造~天皇家(天武)は物部家から皇位を簒奪した

こんにちは「怒るでしかし~」と申します。こちらのブログへの投稿は初めてとなりますが、宜しくお願いします。
記紀編纂の謎ですが、ひとつには記紀が共通とした歴史捏造行為は何か、そして紀記の違いは何か(日本書紀が更に徹底して隠蔽しようとしたことは何か)という二本立てで考えていく必要がありそうです。今日は、記紀共通の捏造行為についてみてみたいと思います。
記紀捏造の鍵を握っているのは、物部氏から天皇家への権力委譲(簒奪)にあるようです。
以下は、堀貞雄さんという方のHPからです。
http://members3.jcom.home.ne.jp/horisadao/page005.html [1]
>『唐会要』倭国・日本国伝(には以下のような記載がある)
>日本国の国号は、則天武后(624~705年)の時代に改号したという。日本は倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの国名が優雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国は(倭国とは無関係ではと)疑う。
>このように唐王朝も従来の倭国と日本国の関係に疑問を感じており、『倭の五王』の時代の倭国と、新生日本国は関連性がなかったことをうかがわせる。なにはともあれ、唐の先進的な統治制度に習った律令国家とするためにも、王朝の歴史を記録した『正史』の編纂が必須とされた。
>ただし、天武天皇は正統な天皇であり、天武朝廷につながる代々のヤマト王朝が信奉した神の系譜につながる神々だけが日本国の正統な神であること。これを明記することが『天皇家の正史』の絶対的要件だった。その根拠は、天武天皇が皇位簒奪者ではないことを説明するのに『日本書紀』は最大のページ数を費やしており、大海人皇子は皇太弟(こうたいてい)に任じられたとするのも『日本書紀』の創作だとされる。
>『日本書紀』天武天皇の十年(682年)条(には以下のようにある)
天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子ら12人に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し校定させられた。大島・子首が自ら筆をとって記した。

>また持統天皇の五年(691年)条(には以下のようにある)
大三輪、上毛野、膳部、紀、大伴、石上、雀部、藤原、石川、巨勢、春日、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇の18氏に命じて、先祖からの事績を記した『墓記』を奉らせた。 
                
>このように『記紀』の編纂に先立って、「帝紀」や墓記(氏族史)に類する歴史書を作成させているが、ほとんどが現存しない。後世、多くの氏族が秘匿していた残存記録を元に系譜を復元したようだが、上古の系譜が不鮮明な家系が多いのは、提出された纂記を焼却したことが原因だと推察される。


天武が隠蔽したかった事実。それは同じ天孫族の中でも先に国津神たちと融合して大和の地を治めていた物部氏の存在である。天皇家は物部氏の持っていた稲作の神としての立場を乗っ取った。そしてあたかも自身がそれ以前からの倭の国の王位継承者であるという風に中国に見せるためにつくられたのが日本書紀なのだ。
>物部氏は磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)より前に、河内国の哮峰(大阪府交野市)に天孫降臨したとされる饒速日(ニギハヤヒ)命を祖先とする大豪族だが、用明天皇二年(587年) 物部守屋は蘇我馬子らに攻められて戦死し、一族は離散し、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなったともいわれる。
>『先代旧事本紀』は、序文に推古天皇の命によって聖徳太子と蘇我馬子が著したと記し、古事記・日本書紀・古語拾遺の引用部分が多いが、物部氏の祖神である饒速日尊に関する独自の記述が特に多く、物部氏の書いた書ではないかと考えられ、通説では、平安時代初期の成立とされ、序文以外は偽作ではないと考えられている。
>『記紀』と『先代旧事本紀』では、ニギハヤヒの扱いがまったく違う。先住の天孫族のニギハヤヒを討伐したとなると、大和王朝が侵略者だったことが明白になる。ニギハヤヒの存在を無視して、一切記載しないのが最善の方法だが、現にニギハヤヒを祖とする氏族がおり、それではあまりにもバレバレである。そこで、ニギハヤヒを神武天皇の臣下に仕立て上げた。もし、これに異議を唱えれば天皇に対する反逆として誅罰するぐらいの腹積もりだったのだろう。ただし、物部氏が大和王朝に出仕していたのは歴史的事実であることから、先住のニギハヤヒ系とは別の針路を選んだことは間違いない。だとすれば、ニギハヤヒ系にとって、物部氏は「裏切者」だったことになる。一説には、大和地方の王「ニギハヤヒ」は、後に九州から侵攻してきたニニギに大和地方から駆逐され、東へ東へと逃れ、さらに東北へと追われたが、そのとき、侵攻勢力に迎合した「内物部」と、大和地方の土蜘蛛や蝦夷とともに東国に奔った「外物部」に分かれたとする説がある。

そしてこの迎合した内物部の中から、藤原一族が生まれていく。
>中臣氏(宗家)も物部守屋に連座して衰退するが、なぜかこの後、忽然と中臣鎌足が歴史上に現れ、彼の次男とされる藤原不比等によって、藤原氏は強固な基盤をつくることになる。既述したが、この藤原不比等が中央政権で権勢を握り、天皇家の『正史』として『日本書紀』を編纂させたが、実体は藤原家のための歴史書だとする説が有力で、『記紀』での藤原氏の関する記述部分は、それを留意して読む必要がある。
古代権力の解明は、天皇家そのものよりも、その周辺豪族の研究が重要な鍵を握っているものと思われる。

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