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2009年03月26日
屯倉を探る(1)~屯倉は大和朝廷の地方支配拠点~
こんにちは、みっちーですヾ(≧ー≦〃)
大和朝廷の中央集権化≒地方支配、もっと遡れば大和朝廷の設立を考える上で、屯倉の存在に着目してみたいと思います。
屯倉を追求していくことで、大和朝廷の動き、そして当時の各豪族(勢力)の謎が紐解かれていくのではないかと期待しています。
今回はまず、
屯倉の基礎知識
地方の豪族がなぜ屯倉(大和朝廷の勢力)を置くことを認めたのか?
について追求していきたいと思います。
応援よろしくお願いします
◆屯倉の基礎知識
まず屯倉の基礎知識からですが、屯倉とは「御宅(みやけ)」「宮家(みやけ)」の意で、もともとは大和朝廷の建造物をさし、広くは耕作地等(領有地)を含めての名称です。大和朝廷が様々な目的(穀倉、製塩、鉱山、漁労、武装)のためにおいた、政治的・軍事的な拠点でもあります。
初期の屯倉は、畿内とくに河内や摂津地方の大規模な水田開発事業ために設けられていきます。
「仁徳紀」十三年条に〈初メテ、茨田屯倉ヲ置ク〉とありますが、これは枚方市から寝屋川市に至る淀川の治水のために設けられた茨田堤造営に伴うものです。また〈秦人ヲ役シテ茨田堤及ビ茨田三宅ヲ作ル〉とあるように、水田開発事業には多くの渡来人(先端の技術)が絡んでいます。
さらに新しく開拓された河内平野には、依網(よさみ)屯倉(「履中紀」)を初め数多くの屯倉が設けられていきました。これによって大和朝廷の農業生産力(=基盤)は飛躍的に高まっています。
各地の屯倉(リンク)
(福岡市博物館(特別展示)より引用)
◆地方の豪族がなぜ屯倉を置くことを認めたのか?
地方の屯倉は、交通上・軍事上にも拠点となるような土地に置かれています。地方の豪族はなぜ自らの領地のしかも要所に、屯倉を置くことを認めたのでしょうか?屯倉の設置数の多い九州と東国(関東)の歴史を追いながら、事実関係を明らかにしていきたいと思います。
○九州の屯倉の歴史
九州の屯倉は、磐井の乱後に数多く設置されています。
継体天皇の治世21年(527年)6月に近江毛野臣(けののおみ)は六万の軍隊をひきい任那へと向かいました。新羅に破られた加羅国を取り返し任那を復興する為でした。筑紫国造磐井は前から反逆の意志を持っていてスキをうかがっていたそうです。それを知った新羅は密かに磐井に賄賂を送り、毛野臣の軍が海を渡るのを遮る事を求めます。磐井は筑紫、火国(後の肥前、肥後)、豊国(後の豊前、豊後)の勢力を集め毛野臣の渡航を遮ります。
そこで朝廷は物部麁鹿火(あらかひ)を将軍として派遣、翌年11月に磐井軍を破り斬殺しました。その後、磐井の子の葛子(くずこ)は父の罪に坐して殺される事を恐れて糟屋(福岡市東部)の屯倉(みやけ)を献上しました。
引用:明日香ちゃんのひとりごと倶楽部
磐井の乱後の継体22年(528年)大和朝廷は、武力行使により北九州に糟屋(かすや)屯倉を置きます。その後もさらに各要所に屯倉を設置し、九州の支配力を強めていきます。
安閑2年 535年 穂波(ほなみ)屯倉 (筑紫の国)
安閑2年 535年 鎌(かま)屯倉 (筑紫の国)
安閑2年 535年 湊碕(みさき)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 桑原(くわばら)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 肝等(かと)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 大抜(おおぬき)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 我鹿(あか)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 春日部(かすがべ)屯倉 (火の国)
○東国(関東)の屯倉の歴史
東国(関東)の屯倉は、武蔵国造の乱後に数多く設置されています。
日本書紀安閑天皇紀元年閏十二月条に、武蔵の豪族である笠原直使主(おみ)とその同族小杵(おぎ)とが、武蔵国造の地位を巡って朝廷や隣国上毛野(群馬県)の豪族を巻き込んで争ったという、いわゆる「武蔵国造の乱」記事があります。
武蔵国造の笠原直使主と同族小杵とが、国造の地位を相争ったが(使主・小杵は人の名)、年を経ても中々決着がつかなかった。小杵の性格は陰険で、何事にも逆らう気質を持っており、傲慢で何かに従うということがなかった。それで小杵は密かに上毛野君小熊に援護を求め、使主を殺そうと謀った。これを知った使主は都へ走り、朝廷に申し立てを行った。朝廷はすぐさま決断し、使主を国造とし、小杵を成敗した。国造の使主は大変喜び、何もしないではいられなかったので、国のために横渟・橘花・多氷・倉[木巣]の4箇所を屯倉として献上した。
引用:鳩ヶ谷・川口の古墳改め毛長川の古墳
安閑元年 534年 横渟(よこぬ)屯倉 (埼玉県比企郡吉見町)
安閑元年 534年 橘花(たちばな)屯倉(神奈川県川崎市・横浜市東北部)
安閑元年 534年 多氷(おおひ)屯倉 (東京都多摩地域)
安閑元年 534年 倉樔(くらす)屯倉 (神奈川県横浜市南部)
「武蔵国造の乱」とは、地方豪族の小杵・上毛野小熊と使主(実態は中央集権化を押し進める大和朝廷)との争いです。その戦果として、大和朝廷は要所に屯倉を設置していきます。
このように地方への屯倉は、大和朝廷による武力行使を背景として設置されていきます。
九州、関東の他豪族の領地にも屯倉は設置されていますが、こういった武力行使を目の当たりにしたため、大和朝廷の要請に応じて屯倉を献上したと考えられます。
また安閑天皇二年九月三日条には、桜井田部連・県犬養連・難波吉士に「屯倉の税を主掌らし」める詔の記事が記載されています。おそらくは、こうして設置していった全国各地の屯倉に向けて、徴税を行うべく記載の人物を大和政権内部から派遣したものと思われます。
つまり後期(6世紀以降)の屯倉の地方への設置は、これまでの古墳による連合体制(和合)から、武力行使による中央集権化への大きな転換期となっています。
特に大豪族の毛野氏(けぬし)・吉備氏・筑紫氏などの領域下に集中的に屯倉が置かれているのは、こういった中央集権化への障害を排除し、さらに要所に屯倉を設置することで監視を強化していった結果だと考えられます。
次回は、屯倉にいた大和朝廷の影の存在基盤とは誰か?そして、屯倉は実際にどんな役割を担っていたのか?について追求してみたいと思います。
最後まで読んで頂いて、ありがとうございました
投稿者 staff : 2009年03月26日 TweetList
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コメント
投稿者 スバール : 2009年4月30日 21:14
>天皇は、万世一系で神の血が脈々と受け継がれているという設定になっていますが、少しでも古代史を追求していけば、そんなことはありえないことがわかります
野暮はいいっこなしよ的感覚が、日本人の感性のメインを
占めてるのかなんて思ってしまいます。言挙げせず
とゆう言葉もありますが、よく言えばテレパシー的
空気を最大限読める民族、悪く言えば、本質を探ることを
ひどく嫌う民族ともいえますね。
そう考えると、陪審制度が世界で一番苦手な民族が
日本人だとしたら、笑うに笑えぬ悲劇となりそうです。
一方、米国人すべてとはいいませんが、彼らは議論に
勝つことが正義で、事の真偽は二の次的感覚なようです。
日米同盟とは、議論に勝つことが正義な国と、議論する
こと自体を忌避する国の同盟ですから、めちゃくちゃ
です(笑)