縄文ピラミッドを探る:神社祭祀の前段階の岩石祭祀場 |
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2009年04月23日
神仏紛争(物部VS蘇我戦争)~その実態は?~その1
古代日本(6~7世紀)において、蘇我氏と物部氏による、仏教と神道を巡る争いがあったと「日本書紀」は伝えているが、果たしてそれは、神仏紛争と言われるような、宗教対立だったのだろうか?
歴史の教科書も、幾多の説も、ほとんどが、宗教対立から発生したものであるとしているが、蘇我=仏教、物部=神道とは、単純にはいかないように思われる。
なぜなら、物部の土地には渋河寺があり、蘇我の土地には、宗我都比古神社、入鹿神社があり、両氏族とも、仏教も神道もどちらも取り入れていた可能性があるのだから。
そこで今回は、仏教公伝、神仏紛争の事実関係を、国内外の情勢を交えて見ていきます。
<葛城の滅亡~大伴・物部政権へ>
神仏戦争から遡ること100年前、応神天皇以来、朝廷に仕え、代々大王の外戚として、様々な分野で活躍してきた葛城(円)氏が、大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)により、安康天皇を殺害したとされる眉輪王を匿ったため、滅ぼされた。
そのため、葛城氏と同様、大王の外戚である平群(真鳥)氏が臣になり、主に軍事を担当する、物部(目)氏、大伴(室屋)氏が連になった。
臣と連には、特に上下関係はないが、雄略天皇の時代に、物部目、大伴室屋が共に亡くなり、大臣の平群真鳥がそれ以来、1人で政治にあたっていた。
ところが、武烈朝の時に、大伴金村が平群真鳥を討ち、平群氏が衰退。
これ以降、大伴金村、物部麁鹿火が、大連として政権を握った。
<大伴の失態~蘇我稲目登場>
やがて、武烈朝で天皇の系譜が途絶えると、大伴金村が越の継体天皇を担ぎ出した。この継体天皇の頃、朝鮮の百済と新羅が相争い、互いに任那(伽耶諸国の一部)を得んとしていた。先手を仕掛けたのは百済であった。当時、任那を主に掌握していたのは、倭国であったため、百済は、継体天皇に任那4県を割譲するように要請。
これを受けて、大伴金村が新羅の侵略を恐れ、百済に任那4県を割譲してしまった。
しかし、結果的には、百済は敗北し、新羅が任那を占領することになり、これ以降、倭と新羅の争いが激化していくこととなる。
このこと(大伴が任那を割譲→新羅が占領)に反感を抱いた継体天皇の後継、宣化天皇が、葛城系の蘇我稲目を大臣として抜擢した。しかし、当時の稲目にはそれほどの力はなく、大伴、物部の下に位置づけられていた。
<大伴の衰退~物部の台頭>
欽明朝になり、物部尾輿が麁鹿火の後を継いで大連となり、任那を巡って、新羅と争うことになったのは、大伴金村の責任であるとして、稲目の後押しを受けて、朝廷から追い出してしまった。
こうして、常に2番手、3番手に甘んじていた、物部氏が、朝廷の全権を担うようになり、大伴の領地さえも押えることになった。物部氏が大伴の領地を欲したのは、その領地には、朝鮮より渡来した司馬氏等の、武器製作に長けた、技術者集団が住んでいたためである。
彼らは仏教公伝以前から、居住しており、大伴の軍事部門として活躍していた。
おそらく、彼らは、仏教信仰を容認してもらう代わりに、技術と人材を提供していたのだろう。
そのため、物部氏も当初は、仏教に対して明確な反対の立場ではなかったはずである。
<仏教公伝>
しかし、6世紀前半、神道と仏教を巡る事態は、急変する。
新羅との争いが激化していた百済より、援軍を要請される。その見返りとして、仏像・祭具・経論が聖明王より、欽明天皇に贈られる。歴史では、これを以って、仏教公伝としている。ただ、詳しい年代は明らかになっていない。
欽明天皇は、仏像にはたいそう感激したが、その他には興味を持たなかった。しかし、友好上無碍にすることもできず、群臣に相談することとした。
相談を受けて、蘇我稲目が真っ先に仏教導入に賛成の意を示した。
しかし、物部尾輿は、仏教を崇拝する渡来人を抱えるものの、武芸の神である石上神宮を祀る立場にあったため、「蕃神を祀っては、国神の怒りを招く」として、反対した。
当時はまだ、物部の勢力が蘇我に勝っていたこともあり、物部尾輿の意見を欽明は受け入れ、蘇我稲目には、個人的な崇拝を実験的に許すこととした。
尾輿と稲目は、共に大伴を失脚させた仲間であり、互いの家の婚姻関係も結んでおり、比較的良好な関係であったため、尾輿が仏教を弾圧することはなかった。
その2へ続く
投稿者 jomon10 : 2009年04月23日 TweetList
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コメント
投稿者 ケンタロウ : 2009年6月2日 21:44
>キリスト教は他宗教に対してきわめて攻撃的だった反面、権力には従順そのものだった。戒律の遵守などの「行為」ではなく神を信じる「心」こそが重要であり、「救い」はこの世ではなく、死後にもたらされるとされたので、体制を変革するような意図を持たなかったのである。むしろ、布教のためには権力を肯定し、これに接近することが効果的だと見抜いていたらしい。
↑本質はこれでよいのでしょうか?
権力を得るために作ったのがキリスト教なのか?権力者がキリスト教を利用したのか?それが知りたいです。