古墳時代の鏡にもある‘みんな一緒’の縄文気質 |
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2009年06月15日
弥生時代の争いは「戦争」であると言えるのか?
5/31なんで屋劇場レポート【前編】~大衆共認の行方は?・「闘えない」日本人!~
私もこのなんでや劇場に参加しましたが、一つ気付きがありました。
果たして、弥生時代に戦争などと言えるような争いがあったのか?
自分自身は、弥生時代から戦争が始まったと半ば理解をしていました。考古学的にも、戦傷人骨や武器の出土が見られるからです。ただし、それが「戦争」に値するような規模であるのか?
なかなか史料がまだまだ少ない状況のようですが、改めて事実を追求し、日本人とは?に肉薄できるベースとなればと思います。
byさーね
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ブログで、公開シンポジウム「戦争と人類学」(東京大学)を公聴した方がおられました。その方のブログから引用させて頂きます。
最初の講演は中橋孝博による「日本列島を中心とした先史時代の戦争を骨から探る」
中橋は弥生時代九州の研究者.人骨についた戦傷と思われる傷の有無を巡って,いつ頃から日本で戦争が起き始めたのかについての話だ.
最初に「戦争」の定義は難しいことについて注意喚起.それからまず縄文時代について.戦傷かもしれない傷のある人骨は非常にまれだそうだ.5000体のうちせいぜい数例ということらしい.中には鋭利な刃物で切られたような傷もあるし,解体時につくような傷に近いものもある.いずれにせよ縄文時代には武器は出てこない.断定的にはわからないが,大規模な戦争はなかったのではないかという印象だ.
これが弥生時代になると防御集落,武器,武器型祭器,戦士・戦争場面の造形物などが出土する.またはっきりと戦傷であると確認できる人骨も多く出土する.自分のフィールドである北九州の弥生時代の例を取り上げながら,実際に戦争で傷を受けて死亡した場合の人骨にまで傷が残る割合を推定し,100人単位の戦死者が発生している可能性が高いとのことだ.
時代別に見ていくと弥生初期には福岡,佐賀,熊本の各平野で小規模な戦傷人骨が出土するが,後期になると北部平野と南部平野の境界で狭くなったところに集中して多くの戦傷人骨が出土する.政治権力が集中して2大大国の争いになっていく様子がよくわかるという鮮やかなプレゼンだった.
現代において戦争とは、国同士の争いです。
古代を遡れば、例えば中国も国同士の争いでした。
戦争とは、このようなレベルの争いだと定義してみましょう。
ところが弥生時代に日本に国というものがどれほど興っていたでしょうか?普通の人ならば、邪馬台国ぐらいしか思い浮かびません。本格的な争いも、結局のところ数が少ないようです。
考古学というものは発掘という作業が伴うゆえ、まだ史料が充分とは言えないところもありますが、果たして九州で発掘されている散発的な争いの跡は、果たして戦争と言えるのか?とても疑問に感じました。
※もちろん、日本で集団同士の争いが始まったという説は正しいと思います。
投稿者 sawatan : 2009年06月15日 TweetList
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コメント
投稿者 鯉太郎 : 2009年7月30日 19:48
鯉太郎さん、コメントありがとうございます。シベリアはどんな商売でも「渡り」になるしかないんですね。今でも包丁とぎ職人が路上をウロウロしているときがありますが、あんな感じでしょうか??
投稿者 怒るでしかし~ : 2009年7月30日 23:01
鍛冶師たちにも“渡り”がいて、各地の情報を得て占いのようなことをしていたとは驚きでした。