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2008年02月05日
余剰が冨の集中と戦争をもたらすって本当?
こんにちわちわわです。
日本史の教科書では、概略すると、弥生時代に入って水稲栽培が広まると余剰生産物が生じ、すると冨が支配階級に集中し、戦争が発生する。と書いてあるようですが、本当でしょうか?
狩猟採集民から農耕転換した縄文人の集団内では、蔡紀のための統合者的存在はいると思われますが、自我が共認によって封鎖され、私有意識も存在していない集団内では、余剰が生じたからといって、冨の集中、ましてや戦争に直結するとは思えません。
問題は私有意識の有無にあると思います。
稲作を日本にもたらした渡来人は略奪で国を追われた私権闘争の経験者であり、既に私有意識を顕在化させた民族のはずで、彼らが稲作を生業とする生産集団の統合者に座る事によって、冨が私物として認識されるのであり、私権拡大の邪心によって他集団へ収奪に走るようになったのではないでしょうか。
大和朝廷の国家成立も私権拡大の過程であろうし、私婚制度が根付いているのも貴族階級のみであることからも、渡来人による覇権争いが弥生以降の日本の歴史なんだと思います。
渡来人このやろ!と思った方↓↓ぽちっと!
投稿者 tiwawa : 2008年02月05日 TweetList
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コメント
投稿者 さーね : 2008年3月4日 00:22
興味深い記事です。部族連合が出来ていたということは、何らかの闘争圧力が働き始めたということだと思います。
BC3000~4000の時代とすると、ちょうどメソポタミアで略奪闘争が始まったころです。メソポタミア方面からの影響でしょうか?
投稿者 Hiroshi : 2008年3月4日 00:43
なるほど、ここまでは母系と捉えるのではなく、ここから父系がはじまったという考えもあるんですね>さーねさん
連合の意味は、闘争圧力発と捉えるのが自然かもしれませんが、集住の意味は他にもあるのかもしれません>Hiroshiさん
この辺りの視点も含めて、紅山文化を探ってみます。
ご期待を!
投稿者 maeyan : 2008年3月8日 22:00
紅山文化は、おおむねB.C5000~B.C3000くらいの時期ですね。
紅山文化は、中国でも北方でしょうか。遊牧部族との接触もあった可能性があると考えると、紅山の一部の部族は、父系に転換していた可能性も大いにありそうです。
この辺の地域が、父系への起点になっていそうですね。