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2007年08月07日

戦った縄文人

縄文人はなす術も無く弥生人に駆逐された。
この縄文ー古代ブログでもそう認識している人は少なくないだろう。我々は戦争という技術を持って、人を支配する事を当然の社会摂理とする弥生人と戦争を知らず、友好的でおだやかな縄文人という構図を知らぬ間にイメージしている。
しかしそうだろうか?
実は縄文人が弥生人と明確に戦争をした史実がある。戦争というより抗戦という形で・・・。

北九州や中国地方に縄文時代から弥生時代にかけて1000年に渡って波状的に上陸した中国や朝鮮の渡来人は縄文人と融合し農業社会を構築し人口は増大した。弥生時代に入り農耕社会は九州、西日本からあっという間に関東地方まで広がっていった。大和朝廷が成立した後は日本は一部の地域を除いて統一されていた。
その一部の地域は最後まで抵抗した。それが現在の東北地方の蝦夷(エミシ)である。
大和朝廷の征服軍の攻撃をしのぎ38年間に渡って闘ったのがエミシだった。
今日はその蝦夷討伐に抵抗した縄文人の戦いを振り返ってみたい。

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蝦夷って何だろう?
もののけを読み解く から紹介してみたい。
七二〇年に成立した『日本書紀』は、東北に「夷の国」が在り、そこに「蝦夷」「毛人」などと呼ばれる野蛮な異民族が住んでいると記している。
 『日本書紀』の『景行紀』には、「夷の国」に関する記述がある。それによれば、「住民は男女共髪を椎の形に結い、性格は勇敢で凶暴。村には族長がおらず、悪神や鬼がおり、大和の村々を襲っている。夷の中で最も強いのは蝦夷である。冬は穴で暮らし、夏は樹上に住む。毛皮を着て、獣の血を飲み、鳥のように山をかけ登り、獣のように草原を走る。矢を束ねた髪に隠し、刀を衣服に帯びている。辺境を犯し、作物を略奪する。撃てば草に隠れ、追えば山に入る。故に、昔から王化に従ったことがない。(抜粋・大意訳)」とある。これは四世紀頃、景行天皇が息子のヤマトタケルに蝦夷討伐を命じた時の言葉とされる。この頃すでに大和による蝦夷侵略が開始されていたのかも知れない。
 また『斉明紀』では、六五九年に遣唐使となった斉明天皇が蝦夷の男女二人を伴って唐(中国)の皇帝に拝謁したと記されている。これには蝦夷を倭国の属国として、皇帝に認めさせる意図があった。皇帝にあれこれと問われた蝦夷は以下のように答えている。「蝦夷には三種類ある。遠き者を津軽、次の者を麁蝦夷、近き者を熟蝦夷と言う。私は熟蝦夷である。蝦夷に五穀の栽培はなく、肉を食べる。宿はなく、深山の樹の本に住んでいる。(大意訳)」と。 
このように蝦夷の記述は、一貫して「農耕を知らない野蛮人」との評価だが、これには異国人への敵意と賤視を含めた誇張が含まれていたと思われる。「蝦夷」の当文字は、「蝦」はエビ(ガマガエルとする説もあり)、「夷」は大弓を示しているらしい。いかにも野性的表記で余り好意的とは思えない。実際には、大和に匹敵するほどの高度の狩猟・採集の文化圏を持つ部族であったと思われる

%E8%9D%A6%E5%A4%B7.gif8世紀初頭の蝦夷(日高見国)の領域(古代蝦夷と天皇学

では彼らはいかに戦ったか
稲作文化の東進を根拠として成立した大和朝廷は、様々な少数民族を侵略・吸収して膨張して来た。ところが、大和朝廷の勢力は、東北に及ぶに至り最大の障害に突き当たった。それが蝦夷であったのだ。明確な国家を持たなかった蝦夷の各部族(各小国)は、対大和の戦争に於いて、統一戦線的連合体をなしていったと思われる
六世紀頃までは、蝦夷の一部は大和と属国関係を結び、平和的交易も行っていた。しかし六四五年に「大化の改新」が起き、六五八年には阿倍比羅夫らによる蝦夷征伐(征夷)が行われる。さらに、八世紀に律令国家が成立するに至り、大和は蝦夷に対する侵略政策を飛躍的に強化していく。差別的待遇(奴隷的使役)や領土侵略(村の焼き討ち)などに対して蝦夷の諸族の不満が高まり、ついに武装蜂起が起きるようになる。一方、国境では蝦夷側の亡命者や難民が相次いで流入して来た。これに対し、律令国家は、「城柵」を東北各地に設置し、侵略の前線基地と出張官庁を兼ねた業務を行わせた。七三七年には要所である多賀柵(宮城県多賀城市)が築かれた。これが七八〇年には多賀城となる。
 七七四年律令国家は、ついに二万七千人の大軍を派兵して征夷の大戦争を開始した。以降、八一一年の沈静化に至るまで三十八年間もの間、大和対蝦夷の戦争は続いた。当初は、蝦夷の騎馬を駆使したゲリラ戦術に壊滅的打撃を受けていた征夷軍であったが、七九四年の十万人の大軍を派兵した掃討作戦などにより攻勢に転じ、勝利を手中にした。この結果、日高見国周辺(現・岩手県)の蝦夷は滅亡の道を余儀なくされたのである。
 当然だが、蝦夷の戦力や人口は小規模であった。徹底抗戦の意志と巧みな戦略抜きに、戦闘の長期継続は不可能であった。この史実から蝦夷の優秀な組織力や戦闘力を伺い知ることが出来る

三十八年戦争を闘った蝦夷を指揮していた者は「アテルイ」という名であった。八〇二年、アテルイは大和の和平勧告に応じて一族五〇名と共に生命を保証された捕虜として入京したが、だまし討ちに合って河内で斬り殺された。当時の征夷大将軍・坂上田村麻呂は、後に「征夷の英雄」として語り草になっている。更に時代が下り、平安時代になると安倍氏が東北一円を支配し、ついには朝廷軍と闘って勝つという「前九年の役(一〇五一~六二)」が起きる。安倍頼時は一時和平に応じたが、息子の貞任・宗任兄弟は再び反乱を起こし、一〇六二年源頼義に討たれるまで抗戦を続けた。
 さらにその後、安倍氏と縁故関係にある清原氏が勢力を伸ばし、一族間の闘争が激化し「後三年の役(一〇八三~八七)」が起きた。源義家がこれに介入して鎮圧したことから、源氏の東北支配が始まったと言われる。この安倍氏・清原氏が蝦夷の末裔と言われる。この事件以降、蝦夷の影は歴史から姿を消してしまう。
 このように、蝦夷は一貫して「伏わぬ民」であった

蝦夷の英雄「アテルイ」について触れてみたい。ウィキペディアから抜粋
image71.gif
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。 アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。 この時、胆沢に侵攻した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。 北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。
この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ない。

アテルイの記録からは蝦夷軍のいくつかの特徴が読み取れる。
小規模、ゲリラ戦、組織力。他にも粘り強い、あきらめない、知力がある、訓練されていたことが想像できる。また彼らは戦闘の具として馬を乗りこなしていた事も記録されており、北方騎馬民族の影響も受けているようである。いずれにしても、縄文人の末裔と言われる蝦夷の民は勇を持って弥生人に徹底抗戦したことは明らかである。そして彼らの戦い方(組織力、ゲリラ戦)は意外にも太平洋戦争の日本軍の初期の戦い方に酷似しているのである。

by tano

投稿者 tano : 2007年08月07日 List  

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コメント

こんばんは☆
命からがら逃げのびた説に一票です♪

投稿者 bunchan : 2007年8月24日 00:20

1票ありがとうございます。
黒曜石さらに追求していきます。

投稿者 tano : 2007年8月29日 00:39

>旧石器時代は人やモノが動く動因は火山活動にあったようです。
そうなですか。
では火山活動のデータなどを探索してみる価値はありますね!

投稿者 m : 2007年8月30日 22:19

mさんコメントありがとうございます。
さっそく日本列島とその周辺の火山活動の記録を調べてみます。どの程度あつまりますか・・・請うご期待!

投稿者 tano : 2007年8月31日 00:27

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