日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史3 朝鮮儒教の特殊性 |
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2011年07月18日
縄文晩期とはどのような時代か?1~寒冷化の危機が渡来文化への融和を促進
本シリーズは、現在の日本の閉塞の最も大きな原因の1つとなっている、日本支配層の属国意識について、その起源や歴史について追求するに先立ち、縄文晩期、渡来人が本格的にやって来始める時代の状況に迫っています。
5000年前、縄文中期より長江文明より渡来人が少しずつ日本にやって来るのですが、2800年前からその流れが加速し弥生時代へと入って行きます。(かつては、2800年前は縄文晩期といわれていましたが、最近では弥生の始まりは500年遡るとされるようになりました。)
この時、縄文人は、戦争した形跡はなく、恐らく大陸の乾燥化→北方民族の南下により押し出された長江文明の人々を受け入れたとされます。渡来民が大陸を脱出し、縄文人は受身で受け入れたというイメージがありますが、実は、縄文人のほうにも、積極的に彼らやその文化を受け入れる理由、必要、隙のようなものがあったようなのです。
このあたりの状況は、現在の日本人の気質、受入れ体質や、舶来信仰にも繋がっているかもしれません。では、まず縄文の気候と植生、外圧状況の押さえから
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縄文中期(温暖期)の気候と植生
1万年前日本列島が現在よりも2度平均気温が低かったとされ、本州の大部分は落葉広葉樹林に覆われていた。その後縄文中期温暖化が進むと、冷温帯落葉樹林は後退して、6000年前の最も気温の上昇した縄文中期には、東北地方北部と中部山岳部を除く本州以南ではその分布はまれになった。冷温帯落葉樹林に代わって勢力を伸ばしたのは、中部地方以東ではコナラ、クリを中心とする温暖帯落葉樹林であり、西日本ではカシ、シイの生い茂る常緑の照葉樹林であった。(中略)
縄文時代中期の東日本における人口増加と人口分布は、このような樹林帯の形成と密接な関係があった。縄文人の主要なカロリー源であった堅果類は、冷温帯樹林からはミズナラ、クルミ、トチ、ハシバミが得られ、温暖帯樹林ではコナラ、クリを、照葉樹林からはカシ、シイを得ることができる。そして木の実の生産量は、照葉樹林よりも落葉樹林で圧倒的に多く、特に温暖帯樹林のクリ、コナラの生産性が高いとされている。縄文中期の関東・中部地方に木の実の生産力が大きい温暖帯落葉広葉樹林の発達していたことは、河川を遡上するサケを利用できたこととともに、この地方の高い人口密度を支えたのである。鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」より
縄文中期までは、このように温暖な気候であり、特に温暖帯落葉樹林地帯の関東と中部・東海の人口密度が高かったようです。
しかしその後、4500年前ごろから再び寒冷化し始め、東日本の高密度人口を支えていた温暖帯樹林は著しく縮小していくことになります。以下そのころの状況です。
東日本人口の崩壊
環境考古学の安田喜憲によると、6,000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は、縄文後期に入る4,000年前ごろから冷涼化に見舞われ、縄文晩期に入る3,000年前ごろには厳しい寒冷化・乾燥化に見舞われた。安田は、その気温変動の様子をごく大雑把に次のグラフで表わしている。
この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)は、高温期から寒冷化が進む3,000年の間に、温暖帯系のクヌギ・コナラ・クリなどの森から、冷温帯系のブナ、ミズナラなどの林に大きく姿を変えた。
上図で黄緑色で示した暖温帯落葉広葉樹林が寒冷化によって壊滅的打撃を受けたことが分かる。東日本地区の、高い生産力を誇ったドングリの森林は、その生産力を大幅に減じることとなったのである。
一方、西日本地区の照葉樹林は気温に対する適応性が大きいのであろう。ほとんど気温変化の影響を受けていない。縄文文化はすでに述べたように、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。
その“自然の循環”のうち最も基本となる木の実の生産が、東日本地区で、うまく機能しなくなったのである。その結果、中部山岳の八ヶ岳山麓文化圏とも言える縄文中期の繁栄は、4,000年前ごろ突然崩壊し、5,500年前ごろから1,500年間も繁栄し続けた最北の巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄されることになった。
すでに1万年以上も続いていた縄文社会が、急速に崩壊を始めたといっていいだろう。
関東・中部を中心とした人口の減少
当時の縄文人は、地球規模で起こった気候の寒冷化など知る由もなく、自分の住む地域で、局地的に異常気象が頻発することを、いぶかしんでいたことだろう。
安田の言う縄文後・晩期の寒冷化は、安定的で、且つ高い生産性を誇ってきた東日本の森林が、主要食料・ドングリなどの堅果類の供給を、突然、何年かに一度激減させるというような、異常な事態を引き起こしていた。しかもこの異常な事態は繰り返し襲って来た。
この“自然が作り出した凶作”は東日本の縄文人に、かってない決断を迫ったに違いない。
(尚、約3000年前に富士山が噴火しており、これも東日本の人口崩壊の大きな要因になっていると思われる。火山の噴火は南島諸族、日本人に共通する、大きな環境外圧、これも見逃せませんが今回は詳述は控えさせていただきます。)
次の表は、第1部12節で示した表の縄文中期・後期に焦点を当てたものである。中期と後期すなわち、気候最適期と寒冷化後で、地域毎に人口がどう変化したかを調べてみた。
縄文時代の人口は、縄文中期にピークに達している。それも95%以上が東日本に偏在した。その東日本(東北を除く)が冷涼化・寒冷化による森林の生産力の低下で、人口が半減してしまった。特に中部の山岳地域では3分の1以下に激減した。その一方で注目に値するのは、東日本に較べて極めて人口密度の低かった西日本で、低レベルながら人口が“倍増”したことである。特に四国などは、200人から2,700人へと13.5倍の規模に膨れ上がっている。また九州は実数においてほぼ5,000人に近い大幅な増加を示している。
(もちろんこの表のデータは古くなってしまった。一つ一つの数字の精度も、必ずしも高くないかもしれない。しかしこの傾向に間違いはないと、筆者は考える。)
西日本への移住、渡来文化のへの融和
このような縄文後期における西日本地区の人口増加は、西日本が寒冷化しなかったからでも、照葉樹林の生産性が急に上がったからでもない。またこの期間に、大陸や半島方面から大量の渡来があったからでもない。
唯一つ考えられる理由は、豊かな森を失ったことを実感した東日本人が、西日本地区に南下、流入した結果であろう。
たとえば殆ど無人島であった四国地方に、或いはアカホヤ火山灰から再生した南九州の空白地帯に東日本人が流入した可能性は十分ありうると考える。地図に示すと次のようになる。
日本人の源流を探してより
東日本の縄文人は長く落葉樹林帯に適応して生きてきました。そして、寒冷化にたまらず移動した先、西日本には、渡来人がもたらした「照葉樹林焼畑農耕文化」が受容されており、イモ、豆、雑穀、陸稲などの栽培を中心とする文化で新たな生活基盤を整えていたようです。そのような新しい生活基盤へ可能性収束する形で、西日本へ移動していったということでしょう。
これまで縄文晩期の渡来人→弥生文化の形成は、渡来人主導で形成されてきた、縄文人は受身で、ひたすら受け入れたというイメージがありました。しかし、上記のように縄文人は西日本へとかなり大規模に移住する過程があり、それは、気候変動とそれによる食糧事情の悪化に迫られ、積極的に渡来人の文化を吸収するためであったことが推測されます。
この縄文晩期の危機において、新しい可能性である西日本の渡来系の文化を積極的に吸収していく過程で、土着性に拘らずに外部からもたらされた文化に(戦争を知らない平和民族ゆえ警戒心無く、)積極的に融和して行ったようです。現在の日本人も明治維新、戦後と積極的に外来の文明を物凄い勢いで受け入れてきましたが、縄文晩期の危機→外来文明吸収以来の縄文人の特質といえるかもしれません。
投稿者 fwz2 : 2011年07月18日 TweetList
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