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2006年12月17日

縄文の言葉が残ったこと・・・・

縄文文化って今の日本にいったいどの位のこってるのかなー?と疑問に思ったことがあったけど、
先日あっそうか!と思った。普段はなしている言葉(日本語)ってひょっとすると・・・縄文時代から連綿と続いているのでは・・・
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3000年位前の熊の土偶(青森県尾上山)
森の精霊、かわいいね。
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そんな仮説というか疑問をもって調べてみると・・・・
(以下引用)稀有の森の王国日本

不思議にも今まであまり取り上げられずにきたことなのだが、弥生に関しては2つの大きな謎がある。一つは今に伝わる私たちの言葉が渡来人のものでないことであり、もう一つは弥生時代になぜか文字が出現しなかったことである。
 このことからは次の3つのことが導き出される。  
1.弥生人は雑多な種族であった。そのため共通の言葉を持たなかった
2.縄文人は弥生人によって征服されなかった
3.弥生人は主として文字を持たなかった種族で、江南の地の影響を濃く持つ民の渡来であった
 
重要なことは、縄文人の持つ固有の「言葉」がほとんど損なわれることなく保全された事実である。また「なぜこの時期に弥生の民が渡来したのか」という疑問もある。弥生時代は当初秦という最初の帝国(前3世紀)の圧力が強まった時期から始まり、三国時代(西暦3世紀)という、なべて戦乱の時代であった。そして弥生人とは、戦いに敗れた民が勝者の圧力によって押し出されたボートピープルであった。
 男性主体の難民は容易に地元の民(女性)と結び付く。たとえば拙著(乱世の縄文)で紹介したことだが、安田喜憲『環境考古学』は、縄文晩期の夜臼式土器から弥生前期の板付?式土器への移行の連続性に触れながら、「渡来した集団は、主として男性ではなかったか。そして夜臼式の土器を作っていた女性と結び合うことで、集団内に同化して稲作文明が穏やかに受容されていった」のではないかという見解を示す

言葉が連綿と続いているってことは、それを使う集団が連綿と続いていたことを示している。やっぱり縄文文化は日本の基層的な文化なのだ。弥生文化をもたらした渡来人を受入れ、混血する形で日本人の原型が作られてきたと言えそうです。
渡来集団との融合過程も、弥生の渡来人が主に男だったから、母系の縄文の集団に受け入れられたというのも興味深い説です。ただ逃げ延びる集団の本能からすれば、女子供を守るのを優先するから、渡来人に女の人が含まれる可能性は高かったと考えます。
様々な渡来集団を受け入れながらも、縄文集団と縄文語→縄文の基層が連綿と生き残ってきた事実が重要だと思いました。
(by Hiroshi)

投稿者 ihiro : 2006年12月17日 List  

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コメント

灌漑農業の歴史は西アジアでは6000年前以上も前からありました。中国でも4500年前には灌漑技術がありました。
そして共通しているのはどの地域でも灌漑農業が起きるとしばらくして争いが発生している事です。
日本もまた・・・・。
戦争の歴史の陰に農業がある。私はそう思います。

投稿者 tano : 2006年12月20日 20:23

灌漑農業を行うためには、まず、用水路を作らねばなりません。重機器のある現在と違い、当時は全て手作業ですが、自然とともに生きてきた人々が、自ら喜んでこの作業に向ったとは考えられません。(現在でも自然とともに生きている漁師や猟師は、市場の中でしかいきられないサラリーマンにはなりたくないと思っている人が多いのではないでしょうか?)
「仲間といっしょに自然とともに生きたい」という想いを封じ込め、単調な肉体労働を強いるには、強力な力(当時でいえば、本能を直撃する暴力=武力)が必要だったのでしょう。
そう考えると「灌漑農業→争い」というより「争い→武力支配→灌漑農業」という因果関係にあるように思いますが、いかがでしょう?

投稿者 naoto : 2006年12月20日 21:15

tanoさん、naotoさん、コメントありがとうございます☆
うーん、naotoさんの
>「灌漑農業→争い」というより「争い→武力支配→灌漑農業」という因果関係にあるように思いますが、いかがでしょう?
うーむ。。。なかなか難しい投げかけです。
争いの元には、私有意識(自集団さえ良ければいいという自己中意識)があるのだと思いますし・・・。
それが日本でいつ芽生えたのか・・・?
特に日本の場合、灌漑農業自体が渡来人を経ての移入ですし。略奪闘争から玉突きで落ちのびてきた渡来人に芽生えていた私有意識が、まっさらな縄文人に影響したのかもしれません。
(でも、どう共認されていったんでしょうね?そのあたり、気になります!)
でもでも、灌漑農業という生産様式が私有意識を助長するものだったことは言えるんじゃないかな~と思います(^^)。

投稿者 みつこ : 2006年12月22日 23:06

水準儀のない時代に人々はどのようにして、水路を設置していたのでしょうか?
教えてください!

投稿者 宮崎大輔 : 2009年7月5日 20:20

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