2006年12月27日
2006年12月27日
藤原氏って何者?
学校の日本史の授業でところどころ「藤原氏」という名前がでてきます。
飛鳥時代から出現して、日本を動かした中心となった家というイメージですが、どんなふうに影響を与えてきたのでしょう?今回は藤原氏について調べてみました。
(この記事は、「系図でみる近現代」 「ウィキペディア」を参考にさせていただいています。)
●はじまりは中臣鎌足
最初に「藤原氏」を名のったのは、中臣鎌足。
大化の改新の功により天智天皇より賜った氏姓「藤原朝臣」を姓とする氏族が藤原氏のはじまりです。
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鎌足の死後、中臣氏を率いた右大臣中臣金が壬申の乱で処刑された事もあって、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えた。
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●藤原不比等(645年-740年)・・・奈良時代の権力者
藤原不比等は藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖ともいえます。
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●不比等の4人の息子
藤原武智麻呂(むちまろ)680年 – 737年 (藤原南家)
藤原房前(ふささき)681年 – 737年 (藤原北家)
藤原宇合(うまかい)694年? – 737年 (藤原式家)
藤原麻呂(まろ)695年 – 737年 (藤原京家)
不比等亡き後、元正天皇・聖武天皇の時代に渡る長屋王との政権争いに勝ち、729年から737年の間、朝廷の政治を担ったが、737年の天然痘の流行により相次いで病死。四兄弟の子が若かったため、実務は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が担うことになった。この間、主立った実務官僚も次々に亡くなり、ついで、四兄弟のうち宇合の息子藤原広嗣が740年に乱を起こし、討伐されたため藤原氏の高位官僚の不在時代がしばらく続くことになるが隆盛を極めたのが、房前を初代とする藤原北家。
●現代の藤原氏は「藤原さん」ではないそうです。
実は、数世紀にわたって、大家族に膨れ上がった藤原氏は、日常生活を
するうえでの紛らわしさから、便宜的にその居住地に由来する家名を
名乗るようになり、鎌倉時代あたりからそれは、次第に定着していった。
例えばこの藤原北家のなかでも、道長・頼通の直系で、
摂政・関白になり得る最高の家柄を摂家・・・近衞・九條・二條・一條・鷹司(たかつかさ)を名乗るようになる。これが五摂家。
実質的には「藤原氏」の祖といっても過言じゃない藤原不比等はどんな仕事をしたのでしょう。まずはクリックお願いしま~す
投稿者 bunchan : 2006年12月27日 Tweet