2006年12月20日

2006年12月20日

灌漑による集団統合課題の登場☆

こんばんは~  面白い記事が続いていますが、今日はちょっと縄文・弥生にトリップしてください
るいネットの投稿『縄文人の集団規模と共認の関係』に、
縄文時代は30人規模の単位集団だった。それは意思疎通が図れる範囲で、共認形成を諮ることを第一義としたから!という紹介がありました。みなさん、お読みになられましたか 😀 ?
でもね、集団のありようも時代(外圧変化)とともに変化するものなんです。。。
今日は灌漑稲作が始まって、集団のありようはどういう変化を迫られたのか?を見ていきたいと思います!
まず、ちょっとお勉強・・・。そもそも、灌漑って何?
zike_yayoi_a04.jpg
寺家遺跡(弥生) 灌漑用の水路を、完掘した状態です。この溝の周辺には水田が広がっていたものと思われます。 いしかわの遺跡 さんから頂きました。
灌漑(かんがい)とは農地 に外部から人工的に水 を供給すること(by ウィキペディア)で、日本における灌漑技術の段階は大きく以下の4段階だそうです。(以下、引用及び参考は鷲田豊明氏『日本社会システムの起源』より。)
①弥生時代初頭~後期
 自然河川に堰を設けて水位を上昇させ、溝で導水する
②弥生時代末期~5世紀の中頃
 自然河川相互を結ぶ人工流路の掘削
③5世紀末or6世紀初頭~
 ②に、堤防を構築することによって自然河川を堰き止め流路を変更する、つまり、自然河川を途中から人工河川に転換する方式が加わる。
④7世紀初頭~
 長大な人工流路の掘削による計画的大開発と溜池潅漑の普及
(その内、弥生時代は①~②に該当。だんだん技術が進歩してるのが分かりますね )
つまり、自然の雨水 に頼ったりするのではなく、人工的に河川水 を利用して農業を行うってことみたい。でもでも、この技術が私たちの先祖の集団関係に大きな影響を及ぼすのです!
えっ、どういう風に ?って思われた方、ポチっと押して続きをどうぞ

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投稿者 mituko : 2006年12月20日  



 
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