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灌漑による集団統合課題の登場☆

こんばんは~  面白い記事が続いていますが、今日はちょっと縄文・弥生にトリップしてください
るいネット [1]の投稿『縄文人の集団規模と共認の関係』 [2]に、
縄文時代は30人規模の単位集団だった。それは意思疎通が図れる範囲で、共認形成を諮ることを第一義としたから!という紹介がありました。みなさん、お読みになられましたか 😀 ?
でもね、集団のありようも時代(外圧変化)とともに変化するものなんです。。。
今日は灌漑稲作が始まって、集団のありようはどういう変化を迫られたのか?を見ていきたいと思います!
まず、ちょっとお勉強・・・。そもそも、灌漑って何?
zike_yayoi_a04.jpg
寺家遺跡(弥生) 灌漑用の水路を、完掘した状態です。この溝の周辺には水田が広がっていたものと思われます。 いしかわの遺跡 [3] さんから頂きました。
灌漑(かんがい)とは農地 に外部から人工的に水 を供給すること(by ウィキペディア)で、日本における灌漑技術の段階は大きく以下の4段階だそうです。(以下、引用及び参考は鷲田豊明氏『日本社会システムの起源』 [4]より。)
①弥生時代初頭~後期
 自然河川に堰を設けて水位を上昇させ、溝で導水する
②弥生時代末期~5世紀の中頃
 自然河川相互を結ぶ人工流路の掘削
③5世紀末or6世紀初頭~
 ②に、堤防を構築することによって自然河川を堰き止め流路を変更する、つまり、自然河川を途中から人工河川に転換する方式が加わる。
④7世紀初頭~
 長大な人工流路の掘削による計画的大開発と溜池潅漑の普及
(その内、弥生時代は①~②に該当。だんだん技術が進歩してるのが分かりますね )
つまり、自然の雨水 に頼ったりするのではなく、人工的に河川水 を利用して農業を行うってことみたい。でもでも、この技術が私たちの先祖の集団関係に大きな影響を及ぼすのです!
えっ、どういう風に ?って思われた方、ポチっと押して続きをどうぞ

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どういうことか?というと。。。
河川というのは、山 から海 へと流れていきます。その全てを同じ集団が占有していれば問題ないでしょうが、実際はそうではありません。同じ河川水を利用する集団がいくつも存在するのが実態です。とすれば、ある集団が好き勝手に水を利用するわけにはいかなくなります。(実際歴史上、水利をめぐる争いは多く起こっていますよね )
つまり、縄文時代までは、他集団と接したとしても黒曜石 や翡翠 の贈り物 をしたりと緊張状態を回避できたんだけど、まさに水利という自集団の生産手段(稲作)に直結する問題がゆえに、よりリアルに自集団を超えて調整しなければならない課題が立ち現れた。
つまり、私権意識が芽生えた複数の集団をどう統合するか?という難課題が出てきたわけです。

これらを調整するためには、まず、少なくとも関係を律するなんらかの規範が必要になる。先の塩沢村や八重原村の場合でもわかるように水利慣行の維持のためには絶対性を持った規範が必要なのである。弥生時代の場合、先行する時代にそれを求めることができなかった。彼等は戦争という命がけの方法で、調整のための規範、それを前提にした手続きや秩序の形成にあたらねばならなかったのである。

しかし、水利の問題だけならば、同じ水系一帯の集団同士で協力して生産性を上げていこうよ!という課題共認も可能な気がします。共認原理に基づいて規範形成(わがまま、自己中はダメよ )に向かえば良かったじゃんとも思いますよね。
むむむっ 、戦争 という方法をとってしまった背景は他にもまだありそう
でも、それは次回に回します 。お楽しみに~
ヒント:鉄、鉄器の導入

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