2006年12月16日

2006年12月16日

舟を通じた中国文明と古代日本の交易

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三星堆文明の縦目仮面
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青森県亀ヶ岡遺跡の土偶
中国文明と古代日本の関係を交易を通じて俯瞰してみます。
中国には黄河流域の「馬の分化」と長江流域の「舟の分化」の2つがあったようです。今回は「舟の分化」を紀元前までの期間で辿ってみます。

>環シナ海に広がる「百越の民」と倭人たちは、秦・漢以前からゴンドラ型の竜骨舟にのって往来していたのだろう。東シナ海の荒波にもまれてしばしば遭難したこともあったろうが、呉越の造船技術や操船技術の発達はかなりのもので、すでに春秋戦国期に外洋航海の記録がある。 船首と船尾の反り上がったゴンドラ型の船は、季節風と黒潮に乗って朝鮮や日本に到来したことは、朝鮮海峡や日本海岸に残されたこの竜骨舟の絵図からも知られている。
 この往来を通じて環シナ海の自然崇拝の観念が共有されるようになっても不自然ではない。長江中下流域の「良渚文化」から上流域の「三星堆文化」にいたるまで、越系の人々が河姆渡以来の太陽信仰・精霊信仰・鳥信仰・目玉信仰などの観念を共有していたことは、『ギャラリ-』の「長江文明のイメ-ジ」を参考にしてもらえれば、それが稲作と操船の民のどんな自然崇拝であったかを見ることができるが、朝鮮半島や日本に居住した倭人もまた太陽(女神)信仰・鳥信仰・蛇信仰などの観念を共有していたのである。 

 文明の周縁より
⇒三星堆遺跡から発掘された縦目仮面と青森県亀ヶ岡遺跡から出土された縄文時代の土偶の目がいずれも大きいのは、目玉信仰の系譜を踏んでいるように感じます。
*時代整理:
日本の縄文時代BC10000~BC500年。
中国の良渚文化と三星堆分化BC3300~BC1000年
疑問はBC8000~BC3300年の空白期間の交易はどのようなものだったのか?
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投稿者 postgre : 2006年12月16日  

2006年12月16日

卑弥呼伝説を明らかにする!(1)

😀 tanoです。
卑弥呼は非常に謎の多い女王である.
卑弥呼とはどんな人物か?どこに拠点があったのか?何をした人なのか?
どんどん関心が高まります。まだ調べ始めたところでタイトルのように展開できるかは自信がないのですが、方々の優秀な諸氏のHPを参考にしながら読み解いていきたいと思います。(予定では数回に分けて投稿しますが今回はまず第1回です)
まずは基礎データーを押さえておきましょう。ウィキペディアから紹介http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
>卑弥呼(ひみこ、158年頃?-248年頃?)は、日本の弥生時代後期における倭国の女王(倭王)。邪馬台国を治めた。封号は親魏倭王。後継には親族の台与が女王に即位したとされる。
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↑卑弥呼復原像~大阪府立弥生文化博物館より拝借しました。
次に魏志倭人伝から(同じウィキペディアから掲載です)
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魏志倭人伝によると、
「卑彌呼 事鬼道 能惑衆」
卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明)。

「年已長大 無夫壻」
年長大であったが夫を持たず、

「有男弟佐治國」
弟がいて彼女を助けていたらしい。

「自爲王以來 少有見者」
王となってから後は、彼女を見た者は少なく、

「唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設」
ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。

「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。

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魏志倭人伝を素直に読むと卑弥呼は大衆を惑わす?とてつもない呪術師であり、王になってからは姿すら誰も見れない。生涯独身で長寿。唯一使えたのが側近の男性。卑弥呼の死と共に大衆は悲しみ後を追って死んだという。
さて天照大神から神功皇后まで諸説があるが古事記、日本書紀には卑弥呼の明確な記載はない。
卑弥呼を推定するにはこの魏志倭人伝が唯一の根拠になる。従って卑弥呼の実態には諸説があり、まさに史実から古代ロマンに近いものまで女王伝説が乱立しているのである。

その中で海部氏の『勘注系図』から卑弥呼を割り当てた論説がある。
海部氏(あまべし)とは・・・

>京都府の日本海側、宮津市に、日本三景の一つと知られる、天の橋立がある。
天の橋立が、あたかも参道のように海中に延びた北の端に、籠(この)神社と呼ばれる古い神社がある。その神社の宮司家である、海部(あまべ)家に古い系図が伝わる。

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投稿者 staff : 2006年12月16日  



 
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