弥生時代の戦争は、北部九州から玉突き的に各地に広がった |
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2007年08月11日
東北の縄文文化から学ぶ
このところ当ブログでは、 【仮説】縄文時代の都が1500年も続いたって本当?や、東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化など、東北地方を基盤に発展した都や、豊かな森と食糧資源に支えられた縄文時代の東北地方がクローズアップされていますね!
tanoさんが日本人の基層には西の文化がある!で触れていますが、弥生以降の稲作文化が浸透するまでは、実は、縄文文化は東北地方を中心に発展したのではないかと思うほど、そこから我々が学ぶべきものはたくさんある、ということが分かってきました!
東北地方の縄文文化について、かなり詳しく紹介しているサイトがありました。以下、 「研究調査報告書「縄文文化と東北地方」―東北の基礎文化を求めて」より引用です。
>東北地方の人々の心の中に現在も息づく自然との共生、生活文化習慣などは、気づく気づかないに関わらず、独自のものとして歴史の中でゆっくりと形成され、今日も人々の心の中に潤いを与えている、地域性の最たるものであると言えよう。そして、それを形成したのは、現在の経済システムを形作ってきた稲作農耕文化とは異なる狩猟採集を生業とした縄文時代という歴史なのである。そして、現在のシステムが綻びを見せ、新たな社会システムが模索されはじめている今日、このような歴史を持つ東北地方は、新たな価値観による・新たな社会の旗手となる可能性を秘めていると言えよう。
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◆縄文時代東北の自然環境について
>最も温暖化した縄文時代前期には、平均気温は現在より数度高くなっている。また、貝塚の分布や遺跡の土壌分析から明らかであるが、海水準も今より3~4メートルも上昇していたらしい。その結果、中部・関東地方より北の地域は、東北地方を中心に、コナラ・クリなどの落葉広葉樹林に広く覆われ、海岸線は平野の中まで深く入り組んで、魚介類の採取にきわめて都合の良い環境をつくりだした。
>そして更なる気候の温暖化は、近畿地方以西の植生をやがて常緑照葉樹林に置き換えるが、その食料供給力は落葉広葉樹林に対して著しく低かった。その結果、縄文時代全時期を通じて西日本の人口は伸び悩み、縄文時代を通して東日本よりも稀薄になった。これに加えて、九州南部地方の激しい火山活動は、九州から本州の大半を被うアカホヤ火山灰の存在にも示されるように、縄文時代前期初頭の段階で確立した南九州の縄文文化に壊滅的な打撃を与えた。
すでに、この段階で東日本の人口密度は西日本より高く、さらに竪穴式住居の導入により積雪という自然の驚異もかなり凌げていた、と言われています。
◆自然の恵みと食料環境について
これについては、bunchanが東北日本の源流・ナラ林文化vs西南日本の源流・照葉樹林文化や、森が育んだ日本の漁撈でも紹介していますよ。
そして、食糧生産や加工技術がかなりの水準に達していたことが分かります。以下引用
>クリ・トチ・ドングリなど堅果類の利用である。これらは、秋の大量な採集と長期の保存性に優れ、しかも人間の活動源としての炭水化物を多量に含む。渡辺誠の研究によれば、灰を使った水晒し、煮沸などによるアク抜きの技術は、既に縄文時代前期には確立されていたという。近年では、定住の実現、集落の形成とほぼ時を同じくして、加工用具としての石皿・磨石等の爆発的な増加が認められることから、この技術がさらに古い時期に発明された可能性が高い。
なお、これに加えて沿岸部の縄文人たちに特徴的なのは、大量の貝類採取と巨大貝塚の形成である。後藤和民は、その背景に交換経済の発達に伴う、“干し貝”製品の集中的な製造を指摘した。縄文時代後期には、仙台湾周辺と茨城県霞ヶ浦沿岸で全国にさきがけて製塩土器による塩づくりの技術が芽生えるが、それとともに一つの集落では到底消費しきれない大量の貝殻の投棄は、後藤の考えをよく支持している。
◆独自な文化圏の確立
その後、土器の文様や様式が各集落まで浸透し、様々な道具が開発されていきます。
>そして、間もなく、今度は土器の文様施文具に貝殻を多用する、貝殻沈線文土器様式に移行するが、このあたりの目まぐるしい土器様式の変化は、他の地方の比ではなく、東北地方における急速な縄文文化要素の確立が、その背景に見え隠れする。
>そして何よりも、この様式は、北は津軽海峡を越して北海道南部まで、南は撚糸文土器様式の後に生み出される関東地方の沈線文土器様式にまで、驚くほどの浸透力でその影響を及ぼし、中部地方以西の土器様式を代表する押型文土器様式とともに、日本列島を東西に二分するほどの文化力を示した。この段階で、竪穴住居、集落、貝塚、土偶、磨石・凹石(すりいし・くぼみいし)など植物質食料加工具としての石器…、縄文文化の主な要素はすべて獲得し、縄文時代前期以降揺るぐことのない“縄文王国”としての「東北」の地位が確立するのである。
これまで、古代文明について、西日本を中心とした文化が中心に紹介されている記事や論文は多いのですが、これらの記事を読んでいると、弥生以前は実は東北地方が寧ろ日本文化の中心であったことがよく分かります。
また、稲作文化が食糧事情を飛躍的に変化させたかのようにこれらには書かれていますが、決して歴史の真実を語っていませんね!これも時の権力者によって都合よく隠蔽されてきたのだと思います。
もう少し、事実を掘り下げて生きましょう!次回は、さらに「東北地方縄文人たちの“まつり”と“いのり”の世界」について紹介しようと思っていますので、よろしくお願いします!
投稿者 simasan : 2007年08月11日 TweetList
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