ツタ考1~縄文土器が“ツタ”える蛇信仰~ |
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2011年11月02日
ツタ考2~森の言葉(コトノハ)~
「蛇」に対する信仰は、世界でもいくつかあることは知られています。
けれども、蛇とツタを重ねて信仰したのはおそらく縄文人だけだったのではないでしょうか。
絡み合うツタは蛇の性交をイメージしていたもの。すなわち男女の交わりを象徴したものです。それは「男と女の繋がり」「子孫の繁栄」を願ったものだったのでしょう。
彼らの思考の奥深さ、そして大地に対する畏敬と感謝の念を感じずにはおれません。
「縄文」への捉え方が深まっていきそうです。
それでは、第2章へと移っていきます。第2章は「森のコトノハ」です。
それでは縄文の世界をじっくり味わってください。
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“ツタ・ツル・ツナ”の意味や用例、同一音韻を調べてみます。
まずは漢字をとりはらってしまうことが重要です。本来、日本語を調べるには漢字から辿ることはできません。
漢字に惑わされないように注意して進めていきます。ここから使用する漢字は補助として使っているとお考えください。
ツタ(蔦) ツタワル(伝わる)・ツタッテ(つたって歩く)
ツル(蔓) ツル(吊る)
ツナ(綱) ツナグ(繋ぐ)
このまま読むだけだと関係性を感じられませんが、図で表すとすべて同一音韻であることが納得できるはずです。
ツタ(蔦) ツタワル(伝わる) ツタッテ(つたって歩く)
ツル(蔓) ツルス(吊るす)
ツナ(綱) ツナグ(繋ぐ)
漢字の当て嵌めで無関係に感じますが、ツタ・ツル・ツナの形状と同じ音韻の言葉は見事に一致します。森で生活していた古代の人々が植物の特性をよく観察して産み出した言葉に思えてなりません。
次に“ツル”と“ツタ”の違いを考えます。
ツル・・・吊る(つる) =紐などで固定して垂れ下がるようにする
釣瓶 (つるべ) =つり下がっている桶
弦 (つる) =弓に張る糸。細い糸
鶴 (つる) =首と脚が細長い。
※ツルの特徴・・・細いモノ。ぶら下がっている様子。
ツタ・・・つたい歩き=壁・手すりなどに手をかけ、それを支えにして歩く
伝う =ものに沿って行く。特に何かを手掛かりにして進む
伝わる =人などを仲立ちとして話が広まる。
伝え =言い伝え。伝説。
伝える =(以下に詳しく言及します)
※ツタの特徴・・・沿って進む様子。広い空間に拡がっていく様子。
どちらも宿主を見つけ絡まりながら成長する“ツル・ツタ”ですが
以上のような区分けができました。本文のキーワード“ツル・ツタ”が持つイメージを共有いただけたでしょうか。
ここで私が最も重要な言葉だと考えるのは“ツタ”です。なぜなら最も深い伝達表現“ツタエル(伝える)”と使われているからです。
比較するため伝達表現“ハナス(話す)”を調べましょう。
“ハナス”は「離す」「放す」と同じ音になります。
私が考える模式図です。(言葉はコトノハなので葉っぱで表現しています。)
言葉を話す→コトノハナス
重要事項を伝達するというよりは、思いついた言葉を“話す・離す”イメージだと思われます。
“ツタエル”は広辞苑や語源辞典などで調べても用例が掲載されているだけで語源は書かれていません。私は“ツタエル(伝える)”の語源は“ツタ(蔦)”だと考えます。
日本語(ヤマトコトバ)は間違いなく森の風景から産まれています。
ではなぜ“ツタエル”が重要な伝達表現になったのか。森の風景から考えてみましょう。下図は私が考える“ツタエル”をイメージした模式図です。
ツタ(蔦) ツタエル(伝える)
太い幹は親子関係・師弟関係における“共通認識”を表します。
螺旋に絡まるツタは伝達事項になります。
“ツタエル”には深い関係性を土台としたコミュニケーションが表現されているように思われます。そして“ツタエル”には「受け継がれる」・「物事を引き継ぐ」などの“ツナガル”ことを願うイメージがあります。ここまで読まれると、“ツル・ツタ・ツナ”と同一音韻の名詞や動詞が森にある蔓性植物の生育状況と関係があり、日本語(ヤマトコトバ)が森から産まれた言語であることが理解していただけると思います。
たかが蔓性植物の“ツル・ツタ”ではなく、私たちの日常生活に使われるほど身近であり、私たちの祖先が森の風景から作り出した言葉(コトノハ)だと、みなさんに気付いていただけたらと思います。
投稿者 shinichiro : 2011年11月02日 TweetList
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コメント
投稿者 2310 : 2012年7月16日 22:26
幕末の思想2 下級武士が尊王攘夷に収束したのはなぜか?
(画像はコチラからいただきました) 前稿「幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?」では、下級武士が西洋思想や近代化に収束していった…
投稿者 日本を守るのに右も左もない : 2012年7月18日 16:08
人が、「無常」の観念を手にすると、人生が「苦」・人生をつらいことの多い「憂き世」とみた。この「無常」という観念を「憂き世」という言葉におきかえて受容するが、さらに、死後の世界は気にはなるが、念仏を唱えれば全て浄土に向かえ成仏できるという発想は、人生がつらいなどくよくよせず、人生を大いに楽しむ基調が成立したという日本人の感覚は、我々が持っている自己正当化・他者否定の否定観念から、己を解放して、充足するという観念にたどり着く。もともと、こういった現実に充足できる共同体(本源意識)が残存していたから、そのように判断できたわけで、この重要性は、こういった観念までも、塗り替えてゆくことができるという可能性は、すごいと思う。
「憂き世」は、いつのまにか「浮き世」に変化し、「浮き世」とは、根無し草の空中浮遊した浮き漂う世界であったという価値観は、そこに意味を見出すことの無意味さを教えてくれたのだろう。逆に、現実の充足である、気持ちが浮き浮きするような楽しい世界と認識したほうがうまくいく。しかし、心底は、「憂き世」であり、深刻な苦しみや死の恐怖、収束不全の状況(不安をかかえたままでいる)から解放されてはいないというのが現在に良く似ていると思った。
経典や教祖、教会、教義などを持っている創唱宗教は、「浮き世」の曖昧な人生に根本的な意味を与えてくれるものであるが、根本的で絶対確実なものに不信を抱くのが「浮き世」の感覚と著者はいう。無常とは、いくらがんばったところでいずれ朽ちる恐怖を克服するための観念であるがゆえに、そんな絶対信仰や唯一信仰でがんばってみたところで、意味を見出せないことに気づいていたのだろうと思います。だから、教義が不人気であり、一神教と言われる絶対信仰に興味を示さず、無宗教というが信仰心は厚いという結果になるのかも知れませんね。
その本源性の根本に自然の摂理を見出した自然崇拝・精霊崇拝といわれる全ての存在に霊・魂が宿るという観念が深く、長く、広く日本人の根底に流れていることがはっきりとしました。
ここに、日本人の今後の可能性を見出す事ができると思われます。