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2007年01月18日

縄文土器体系化の祖、山内先生のお話

次に土器分類を考え出した山内清男氏(1902-1970)のお話です。縄文をかじった事のある人なら当然、この方を知ってますよね。
山内(やまのうち)氏を知らない人は(土器を発見したモースと並んで)モグリです。この方は縄文学の祖と言われるほどの人物です。どの程度凄かったか・・・この投稿を読みながらイメージしてみてください。
以下は東大総合研究博物館のHPより抜粋させていただきました。
山内清男の先史学研究の最大の業績は、綿密な観察に裏打ちされた縄文土器の分類にもとづく、日本先史時代の編年体系の設立にあった。
考古学・先史学に限らず、時間的経過の中で事象の変化生成を明らかにする学問においては、その時間経過の体系=編年を持つことは必須の要件である。日本考古学においてこのような編年体系確立の必要性が認識されはじめたのは大正末期から昭和の初年にかけてのことであり、この時期はまた日本における科学的考古学の確立をみた時期でもあった。

次に・・・・なぜ山内先生が体系化を試みたのか、
日本列島に存在する縄文土器が、単一なものではなく、さまざまな変化を有するものであることはすでに明治時代より知られていた。
しかしながらそれらの変化がいかなる原因によって生じたのかという点については、年代差、地域差、文化系統ないし部族の差によるとするなど、さまざまな解釈が行われていた。山内はこれら乱立する諸見解の中から、新らしい方法に基く編年体系の確立を指向した。

~以上抜粋
モースが大森貝塚で初めて縄文遺跡を発掘したのが1877年、それから遺跡の発掘が進んで50年、きっとたくさんの縄文資料が有象無象に錯綜していたのが山内氏の時代だったのでしょう。
まずはそれを整理したい、体系化したいという当事の考古学の期待に応えたのが山内氏の研究だったのです。
ホーっ、なるほど!orそれがどうしたと思った方↓して進んで下さい。山内先生の原文掲載もあります。
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まずは原文から・・・
「縄紋土器一般の無数の変化は、地方及び時代による変化の雑然とした集合である。我々はこのままを縄文土器の姿だとは考え得ない。寧ろ斯くの如き器物の羅列を一旦棄却しよう。そして、地方差、年代差を示す年代学的の単位――我々が型式と云って居る――を制定し、これを地方的年代的に編成して、縄紋土器の形式網を作ろう。この新しい基準によって土器の製作、形態装飾を縦横に比較して土器の変遷史を作ることが出来るであろう。――中略――この基準は単に土器自身の調査に関わるばかりではない。縄紋土器の時代に於ける土器以外の遺物にも幾多の変遷消長があった。――中略――この遺物の変遷は土器の細別を基準として明らかにされ得たのであって、単なる遺物又は遺物の変化の羅列に負うところではない。――中略――縄紋土器の文化の動態は、かくの如くして――土器型式の細別、その年代地方による編成、それに準拠した土器自身の変遷史、これによって排列されたあらゆる文化細目の年代的及び分布的編成、その吟味……等の順序と方面によって解明に赴くであろう」(「日本遠古の文化」I 縄紋土器文化の真相
上記についてHPでは、ちょっと解説があります・・・(解説も難しいですが)
山内はこの編年体系の基礎として、型式と系統という二つの概念を用意する。型式とは「一定の形態と装飾を持つ一群の土器であって、他の型式とは区別される特徴を持つ。
型式があたかも生物学における「種」に近い一種の類概念を持つのに対して、系統はそれらの諸型式間における時間的、空間的関連をたどるさいの指標として考えられている。
型式、系統の概念は深いです。
↓山内氏の直筆の系統表です。(文字が見えないのが残念です) :cry:
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山内氏の分類は以下のようになっているようです。

全国を約10の地域に分ち、縄文土器を早・前・中・後・晩期の五期に区分し、さらにそれぞれの時期の中を4~5の土器型式で細分するものであり、今日の縄文土器の型式区分・時期区分はこの時に定まった。そしてこのようにして定められた年代的体系の構成要素たる土器型式の内容を具体的に示そうと試みたものが1939年(昭和14年)から1940年(昭和16年)にかけて出版された「日本先史土器図譜」であった。
抜粋はリンクから
(縄文時代を通じて派生した型式数は数え切れない程だが、それらを整理して様式としてまとめると70程度とされる。さらに時間軸でまとめると6期に区分され、時代を通じて概ね継続する地域文化圏ないし領域が日本列島全域で7~10あったようである。←ウィキペディアさんからの情報はこう書かれています)
管理人Tanoの感想⇒山内先生の研究は素晴らしいと思いますが、まだ発掘資料も少ない大正時代末期に作られた縄文時代区分を土器がこれだけ発掘された現在でも使っている事は驚きに値します。学問の基礎が作られた明治から大正のさまざまな分野の学者の能力と活力の高さは現在とは格段の差だったのだろうと思いを馳せます。
一方、各種分類が乱立しながら並存している今日の縄文学は東大考古学が他の論説を寄せ付けない過去の学者の権威で押し切っているとも思ってみたりします。・・・・⇒近い将来、このブログで素人ながら、あたらな縄文時代の分類を提案してみたいと思います。分類軸は社会構造、婚姻形態、生産様式、縄文海進辺りで・・・。無謀かな

by tanoでした。

投稿者 tano : 2007年01月18日 List  

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コメント

縄文ブログもついに人類史に向かい始めましたね。
同じように直立したネアンデルタール人が絶滅しクロマニョン人が生き残ったのもこの咽頭の構造にあったようです。
つまり人類から言葉を奪い取ると生きていけない。
まさに生死をかけて獲得した機能が言葉という観念機能なんですね。

投稿者 tano : 2007年1月24日 22:09

tanoさんコメントありがとうございます。
これから人類史というか世界史を主に扱っていこうと思っています。教科書には出てこない世界史の面白さを伝えていけたらと思っていますので、みなさんお楽しみ。

投稿者 カッピカピ : 2007年1月27日 12:27

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