2007年1月26日
2007年01月26日
縄文の祭り ~地域性と集団形態による差異~
自然の中に生き、その恵みと厳しさの双方を知っていた縄文世界の人々にとって、村の安泰と子孫の繁栄は、自分たちの人智を超えた、切実な願望であったに違いない。彼らは、彼らを取り巻く自然界のあらゆるものに“いのち”を感じ、あるときは収穫の恵みに感謝の念を捧げ、またあるときは不順な天候の好転を願って、あらゆる場面で素朴な祈りを捧げた。このような自然崇拝は、先史時代の諸民族に普遍的な原始宗教のかたちだが、縄文人は年々の季節の移り変わりに、いのちそのものの“よみがえり”を感じ中期段階には家族共同体レベルの直接的な“まつり”と、集落共同体レベルの“祭祀” が、次第に分化していく。(http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j33maturinochi1.html)
縄文の“まつり”がどのように変化していったのか ??各時代の代表的な出土品、地域性を比較することで見えてくるものがありそうです。
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投稿者 dai1028 : 2007年01月26日 Tweet
2007年01月26日
船泊縄文人の海上ネットワークは交易か?
こんにちは。
北海道は礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡って知ってますか?
日本最北端の縄文後期の遺跡です(3800~3500年前)。
場所はココ↓
写真は「日本人はるかな旅展」よりお借りしました。
その船泊遺跡では、イモガイ、タカラガイ、マクラガイといった九州や沖縄のように暖かい海の貝で作られた装飾品が出土しています。他にも、新潟県の糸魚川産のヒスイのペンダントなども発見されています。
写真は↓↓ キレイですね (上がマクラガイ、下がヒスイですヨ。)
さらに、礼文島といえば周りは海。海といえば魚。彼らは魚を捕まえるための銛と、その先端につける矢じりの接着に、天然のアスファルトを使っていたようです。天然アスファルトの産地は限られており、秋田や新潟などの国内産ではなく、さらに北方のサハリン産である可能性が高いようです。
写真はコチラ↓
船泊遺跡の人たちが船に乗って南方や新潟やサハリンへと渡ったのでしょうか? それとも南方や新潟やサハリンの人たちが渉ってきたのでしょうか?(当時サハリンにも人が住んでた???)
いずれにしても、かなり広範囲の交流があったのは間違いないですね。
興味が湧いてきた方は、応援よろしく♪
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投稿者 nishipa : 2007年01月26日 Tweet