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縄文の祭り ~地域性と集団形態による差異~

 自然の中に生き、その恵みと厳しさの双方を知っていた縄文世界の人々にとって、村の安泰と子孫の繁栄は、自分たちの人智を超えた、切実な願望であったに違いない。彼らは、彼らを取り巻く自然界のあらゆるものに“いのち”を感じ、あるときは収穫の恵みに感謝の念を捧げ、またあるときは不順な天候の好転を願って、あらゆる場面で素朴な祈りを捧げた。このような自然崇拝は、先史時代の諸民族に普遍的な原始宗教のかたちだが、縄文人は年々の季節の移り変わりに、いのちそのものの“よみがえり”を感じ中期段階には家族共同体レベルの直接的な“まつり”と、集落共同体レベルの“祭祀” が、次第に分化していく。(http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j33maturinochi1.html [1]
 縄文の“まつり”がどのように変化していったのか ??各時代の代表的な出土品、地域性を比較することで見えてくるものがありそうです。
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【縄文早期】
 縄文時代の祭りについては未解明な部分が多いですが、現在わかっている段階では青森県根井沼(ねいぬま)遺跡で出土した縄文時代早期の土偶が、現在解っている中では最古のものです。しかし、土偶の発生を全国的に見渡すと、まず早期前半、関東地方の東部に局地的に広がり、これにやや遅れて近畿地方、最近では九州南部地方でも出現することがわかってきます。いずれの地域でも、その発生は竪穴住居が普及し、集落の形成が行われる時期に一致します。
 土偶を使った信仰、“まつり”の起源は、集団の形成と密接な関わりがあるように思います。
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【縄文中期~後期】
 国立歴史民俗博物館で試みられた、全国の縄文土偶の集成では、現在までに出土した土偶を、未報告のものも含めて約1万5,000 個と推定する。このうち所在が明らかな土偶は、1万683 個。その中でも、最も多い出土数を誇るのが岩手県の2,182 個です。
 縄文の“まつり”は、もちろん土偶の存在だけで語り得るものではないが、東北地方が、晩期まで続く縄文“土偶祭祀”の礎となり、その後も牽引していったものと考えられる。
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【縄文晩期】
 出土数は少ないが、晩期になると「仮面土偶」が姿を現す。 縄文時代の仮面は、縄文後期及び晩期のものが、今まで全国で40例ほど出土し、その分布は北海道、近畿地方の各一例を除き東北地方に集中、これに関東、北陸地方が含まれる。
 これらは縄文人の仲間の死に関する儀礼で、仮面を着装し“舞”をまうことで死者や精霊と合一化、守護神としての甦りを体現するために使われたと言われている。(http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j33kamen5.html [6]リンク)
 仮面 8) が祭りに使われるようになった背景としては、「これまで土偶や石棒などにたよった祭式に加え、縄文人はもっと強力に神や精霊に問いかける方法を編み出しました。人間が仮面を装着し、直接精霊となって災いや願い事に速やかに答えようとしたのです。」
 という説があるように、寒冷期の突入による平均年齢の低下、人口激減という過酷な外圧状況から生まれたものと考えられます。
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と、いうように“縄文のまつり”はとりわけ亀が岡を始めとし、東北地方で特に重要視されていたようです。根底には、より過酷な外圧(気候)状況に適応⇒進化しようとする意識から、集団内における共同体性を強めた結果ではないでしょうか。祭りの形態的・意識的変化にも外圧・集団との必然的な相互関係がありそうです。
ダイ

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