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2007年01月26日

船泊縄文人の海上ネットワークは交易か?

こんにちは。
北海道は礼文島の船泊(ふなどまり)遺跡って知ってますか?
日本最北端の縄文後期の遺跡です(3800~3500年前)。
場所はココ↓
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写真は「日本人はるかな旅展」よりお借りしました。
その船泊遺跡では、イモガイ、タカラガイ、マクラガイといった九州や沖縄のように暖かい海の貝で作られた装飾品が出土しています。他にも、新潟県の糸魚川産のヒスイのペンダントなども発見されています。
写真は↓↓ キレイですね (上がマクラガイ、下がヒスイですヨ。)
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さらに、礼文島といえば周りは海。海といえば魚。彼らは魚を捕まえるための銛と、その先端につける矢じりの接着に、天然のアスファルトを使っていたようです。天然アスファルトの産地は限られており、秋田や新潟などの国内産ではなく、さらに北方のサハリン産である可能性が高いようです。
写真はコチラ↓
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船泊遺跡の人たちが船に乗って南方や新潟やサハリンへと渡ったのでしょうか? それとも南方や新潟やサハリンの人たちが渉ってきたのでしょうか?(当時サハリンにも人が住んでた???)
いずれにしても、かなり広範囲の交流があったのは間違いないですね。
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船泊縄文人の海洋交流のルートは下図のように広域になるようです。
日本やサハリンだけでなく、大陸の方まで延びてますね。
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北海道人によると、

1998年に大規模な発掘調査が行われると、そこに驚くべき発見があった。
遺跡のなかから大量のビノスガイという二枚貝の破片、島で採れるメノウでできた1万個以上にのぼるキリ(ドリル)の先端部分、作業用の炉跡などが発掘されたのだ。
縄文の人々はビノスガイを割って中央にキリで穴をあけ、なめらかに磨いて仕上げる「貝玉」を首飾りや腕輪などの装飾品にしていたが、ここはその「貝玉工房」と考えられるのである。
船泊の墓からもたくさんの貝玉が出ているが、船泊でみつかった貝玉と同様のものが、約1000キロ離れたロシアのバイカル湖周辺でも発見された。また大陸各地の遺跡で出た貝玉のほぼすべての種類が船泊からみつかっている。
まさにこのことから、貝玉の原料ビノスガイとキリに使うメノウが豊富にとれる礼文島で、当時人気のあった貝玉を大量に作り、サハリンや大陸とも交易していたと考えられるのである。


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さて、ここで云う“交易”とは、どのように理解したらいいのでしょう?
礼文島でたくさん採れるビノスガイから装飾品を大量生産して、各地の貴重品と交換取引していたのでしょうか?
るいネットの【「贈与」と「掠奪・収奪」と「交易(交換取引)」】では、贈与を次のように定義しています。

【贈与】:共認原理に基づく友好の証
・他集団との接触によって生じた緊張圧力を相互の贈与によって回避。
・双方とも私有意識・自集団第一の意識は存在せず、友好の証として各々の集団が最も貴重と考える品を交換条件なしに贈与し合う。


船泊遺跡での、貝玉工房で作った膨大な数の装飾品と、はるか遠方から入手したマクラガイ、ヒスイ、アスファルトといった貴重品を見るに、“友好の証”としての贈与品を超えた関係であるようにも思えます。しかしながら、掠奪・収奪や交易(交換取引)では決してない。
やはり、共認原理に基づいて、自集団のもっとも貴重な物を贈り合ったと考えたほうが良さそうですね。
皆さん、どう思われますか?
 (eto)

投稿者 nishipa : 2007年01月26日 List  

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コメント

土偶が吊り目なのはなんででしょう?
土偶をじっと見ているとなんかホッとするのは私だけでしょうか?吊り目とは現代的感覚では怒り、威嚇などのイメージにつながりますが、土偶を見ているとそんな感情は見えてきません。むしろ凛として何かを見据えているそんな印象を持ちます。
現在でもアイシャドーとかマスカラで目を吊り目に見せる女性が多いですが、縄文人の吊り目表現も化粧した女性を表わしているのではないでしょうか?そう考えると女性の化粧方法は1万年以上変わっていないことになりますね。(^^;)

投稿者 tano : 2007年2月1日 02:16

つり目だけどなんだかかわいい☆
そう思って人面土器とか土偶ってどうなのか調べてみたのですが、だいたい縄文中期の長野県あたりに同じタイプのものが多くてその地域にそういったものをつくるのが流行ってたんだなあ~と思いました。
縄文時代の食生活とか住居とか、いろいろと当時の生活はこうだったのではないか?という仮説がありますが、縄文時代の女性の化粧はこうだったかも!っていうのは面白いですね~♪

投稿者 bunchan : 2007年2月1日 23:06

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