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2008年05月30日

縄文:祭りが生産活動=食の確保を確実にした!

先日投稿しました縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!のtanoさんからのコメント
>祭りって見るもの、楽しむものという解脱というイメージがありましたが、本来は生産なんですね。
実は、祭りそのものが生産活動=食の確保を確実にした?そんなネタがありました。
今日も先日と同じNPO法人国際縄文学協会カミの発生と縄文時代(萩原秀三郎先生)の論文を参考に投稿したいと思います
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秋田県大湯遺跡の日時計状組石
byさーね
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カミの発生と縄文時代  萩 原 秀 三 郎
(長いため、抜粋してます⇒ぜひこちらを読んでみてください 😮 )
俗に「鰯の頭も信心次第」という。カミはいつの時代でも「信仰」という基盤から発生する。特に「混沌」
がお定まりの原始時代にあっては何らかの「核」を抱いて、虚空にカミという抽象を昇華させることはありえた。ところが、この「核」、実はそれほど単純で茫漠としたものではなかった、というのが私の考えである。ある意味では実用性に富んだものともいえた。原初的発生の実年代も縄文時代と特定できる。…(中略)…

実は、普通に自然の摂理に照らして考えてみると、縄文時代は実用性があるなんてレベルではなく、行動に至るまで集団全ての中心だったのではないか

縄文の巨木崇拝を訪ねると、常に死者の世界と切り結んでおり、その意味で巨木は墓標ともいえる。巨木信仰を特色とする縄文中期の社会には、墓地を単に死者を埋めた場所から祖先を祀る場所に転じたとみられる例も数多い。…(中略)…

三内丸山の巨木柱列は墓道を配した北西隅に置かれ、恐らく死霊供養の祭祀が行われたであろうし、あの世での死霊の鎮魂と安穏は、この世の生活の安泰を約束するものである。そして、この巨木柱列は、山を方位の目安とした周囲の景観と二至・二分(冬至・夏至・春分・秋分)の日の出、日の入を意識したものである。太田原潤によると柱穴の配置は、山の方位や日の影の出方を計測するためのもので、目的は季節の認識、つまり縄文カレンダーの作製にある。季節を知り時間を知る必要は、漁撈・狩猟・採集など生産活動の種目は網羅的であったが、あらゆる生産活動に欠かせない。
縄文人が熱心に太陽の運行に関心を寄せていたことは事実で、秋田県大湯遺跡や青森市小牧野遺跡は石を並べた環状列石であり、栃木県小山市寺野東遺跡は配石とはちがう土盛り墳墓であるが、いずれも墓制にかかわると共に夏至や冬至の日の出を測る日時計の役割を果たしていた。

山形県長井市の長者屋敷遺跡では、縄文中期の集落と、集落の北西隅で半截木柱四基の遺構が発見された。四本柱は、冬至の日の入りと春分・秋分の日の出を意識して柱を配置したものと考えられている。四本柱跡の中央部からは多くの礫(れき)をともなう土坑が検出され、墓跡と推定されている。
これらの縄文祭祀遺跡からうかがえることは死者祭祀と時間の読みとりが不可分であり、死霊の去来と二至・二分の太陽霊の去来とは結びつきが深かったと推し測れることである。
…以後、省略

【祭りが人々の活力源】

【常に自然に対して同化⇒注視】
・日常から、季節を読み取る
・生産対象=動物や実がなる木,海,魚の動きを読む

【祭りと生産活動の統合】
⇒ある時、祭りで使った御柱やストーンサークルが日時計になることに気付いた

【確実な生産活動=食の確保】

【御柱やストーンサークルはみんなの拠所】
⇒墓として、死んだ者たちも常に一緒にいよう
再生への祈り
この過程の中で、いろんな試行錯誤をして辿り着いたのだと思います。三内丸山のような大集落において、あの柱が存在した理由も明確になるのではないでしょうか?
祭りが生産活動=食の確保を確実にした!自然信仰で生き抜いた縄文人みなの結晶なのです。

投稿者 sawatan : 2008年05月30日 List  

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