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2008年05月15日

縄文:祭りは、集団を統合し集団を超えた?!

以前の記事  三内丸山は語る(1)でも書かれていますが、

この御柱祭は諏訪大社という神道の祭事であり、それをはるか縄文時代、しかも社会構成の違う時代の人々が残した時代の人々が残した遺構と、ただちにくらべることはできない。しかし、巨木の山だしから建立までに投じられる人手とそのエネルギーは、縄文のそれを彷彿とさせるし、何よりも祭事をとおして、一つの共同体という意識のもとに人々を結びつける重要な役割をはたしていたということでは相通じるものがある。

諏訪大社の御柱祭 は、の写真。よく話題になりますよね 😮
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今日は、NPO法人国際縄文学協会小山修三先生の論文「巨木の祭り-御柱と縄文-」を参考に、縄文時代の祭りの様子を探りたいと思います
byさーね 😮
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少し長くなりますが、なぜ巨木をわざわざ立てたのか
巨木をたてる迫力と人の群れを想像しながら読んでみてください 😉

考古学から見える要素
 北陸地方の新保チカモリ遺跡(金沢市)、真脇遺跡(石川県能都町)には巨大な木柱が、直径2 メートルもある深い穴に規則正しく立てられていた。柱はクリ材で、断面がカマボコ状に成形されており、原木の直径が80 センチをこえるものがある。柱根には穴と溝が穿たれ、巻きつけた藤蔓が残っているものもあった。縄文時代に鉄はなかったので、石斧や石ノミを使ってクリの巨木を伐り倒し、枝をはらい、成形し、溝をほり、穴をあけていたのである。
 問題にしたいのは重量である。柱の上部を想定すると、数トンの重さになるはずだ。それを運び、立てる作業はどうやったのか。発掘報告書には4、5人の半裸体の男が綱でひいている想像図が描かれているが、はたしてそれほどわびしく、貧しい作業だったのだろうか。むしろ盛大な祭りがあったことを考えるべきではないか。その時、脳裏をよぎったのが御柱祭だった。

巨木を切って立てる…縄文人の”森の精霊とともにありたい”という想いだろうか。初めは、集団をあげての一大作業だったのだろう。自然の精霊への信仰が、その起点だった。

御柱祭に見える縄文的要素
 御柱祭の現場に立つと考古学的には見ることのできない要素がたくさんあることに気づく。まず、見事といっていいほど畜力や機械力が排除されていて、すべて人力。大木を縄で曳き、テコで持ち上げ、時にはコロをかます。微力である人の力は、集中されなければ有効な力とならない。そのため、技術や工夫のほかにも合図や励ましのかけ声や言葉が加えられ、リーダーの下に集合の力を統合させるシステムができあがっている。
 そしてオンベ。これは曳き手を鼓舞するためにふりたてるもので、長い材の先にたくさんの長いテープ状の布や繊維を房状にまとめてある。これらは杉やヒノキのような真っ直ぐな木の薄皮でもつくられるし、草の長い茎からもつくることができるだろう。…(中略)…
 もう一つは「木遣り唄」で、御柱の運行をとりまく音環境のなかでひときわ目立つ。唄は曳行の節目で歌われる。短く三音階ぐらいの平板なメロディを、非常に高い声で歌うものでそれをきっかけにヨイショ、ヨイショと曳き手の力が集結され、柱が動き始めるのである。

集団のリーダーが統率しながら、皆が役割を担い、息を合わせて巨木を運ぶ。人は一人一人の力は微力だ。しかし、集団の皆が力を合わせれば、成し遂げられる。この充足感=集団の充足感はとてつもない成功体験となって、集団を統合していくだろう。共同体=人々の共認をフルに生かした祭りへと発展していったのだ。
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祭りの意味―物、情報、DNA
 情報は他の地域でどんなことが起こっているか、今社会がどう動いているかを知り、それに対する戦略を考えることだ。再びアボリジニの例をあげるならば、天候異変や不作によって集団が追いつめられた時ほど祭りが盛大になるといわれている。

縄文人にとって社会を知るとは、自然外圧がその一つ。
もう一方、この巨木の祭りを通して感じること。

集団のみならず、周辺の他集団がどのような意識でいるか?様々な集団がお互いこのような想いを抱いていたのではないか。それが、巨木の祭りを通して集団を超え、三内丸山のような超集団的な集落を生み出したのではないだろうか。
PS:諏訪大社の御柱祭…1回この目で見たくなってしまいました 😮

投稿者 sawatan : 2008年05月15日 List  

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コメント

なるほど・・・。
弥生時代=渡来人→農業→戦争勃発⇒私権時代突入の図式にはならないんですね。
渡来人→農業・・・・(略奪民族の侵入)→戦争勃発⇒私権時代突入と、間に(略奪)が入る必要があるのですね。
弥生時代=戦争ましてや農業=戦争という大雑把な捉え方は改めるべきですね。

投稿者 案山子 : 2008年6月21日 11:30

案山子さん返信ありがとう!
こうして、今回シリーズで弥生を追及する過程で改めて見えてきた部分があり、今後も引き続いて追求していこうと思います。
弥生以降の戦争は何が引き金になったか、渡来人との関係はもう少し追及していこうと思います。また、よろしくお願いします。

投稿者 simasan : 2008年6月21日 18:29

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