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2007年10月30日

著書『縄文「ムラ」の考古学』からの新たな視点

こんばんわ :D
縄文担当のtanoです。
このブログも最近マヤ、中国に押されて日本(縄文)の影が薄くなってきています。 :-(
ということで、私のグループではしばらく縄文時代を分野毎に追求していくことにしました。
今日はその第1弾です。
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最近読んでいる本で縄文「ムラ」の考古学という著書があります。川崎 保氏という長野県立歴史館専門主事学芸員の方が執筆・編集されています。⇒一部をネットで見れます
この本は長野県の縄文遺跡を長く調査してきた川崎氏がご自身の研究成果としてまとめられただけでなく、縄文時代のムラを長野県の遺跡を下敷きにして道具、居住、交流、男女の役割等の観点で再現しようとする壮大な試みです。
この書の優れている点は考古学的データーだけでなく考古学に長年触れてきた著者の直感や仮説が各所に展開されている点です。今日は考古学資料の転載まではできませんが、著者の捉えた縄文時代のムラのありようについて連続シリーズでいくつか紹介してみたいと思います。(著者の川崎氏には大変申し訳ないのですが、紙面の都合で一部私の文章でまとめなおしている部分があります)
「縄文ムラの誕生」
定住とはなんだろうか?竪穴式住居跡があってもそこに連続して住んでいたという根拠がなくてはならない。住居の中に石や炉があったとしても定住化への発展的段階である可能性も残る。やはり定住的という以上は住居跡群に明確な特徴が必要になる。直線的や環状配置など明確な意図をもって人間集団が構成されていることを定住的と呼べなくもない。しかし最も目安となるのが「モニュメント」や「ランドスケープ」を持ってムラが形成されている場合である。
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この場合のモニュメントとはある程度の労力を費やしてつくったものである必要がある。
縄文ムラを定住的な住居跡や付属する遺構群をもって定義するとすれば信州の場合、約8000年前の山の神遺跡に始まると思われる。山の神遺跡は「コ」の字状の石列が竪穴式住居群のほぼ中央に位置しており、南北9m東西11mの規模で平面形はほぼ直交している。山の神遺跡にはこの石列以外にも1mないし2m程度の直線的な石列が数基検出されていて、それが各層から検出されているので、少なくとも数年から数十年以上長い期間に渡ってモニュメントが作られていた事が伺える。
「縄文ムラのイメージ」
100軒以上の竪穴住居跡が検出されたといっても、遺構に共伴する土器や切り合い関係などを分析すると同時期に共存していた住居は意外と少なく10軒以下であることはよくある。
竪穴式住居に何人住んでいたかと聞かれるが、私は姥山貝塚の例を上げて4人と答えている。そこから換算すれば縄文ムラの人口はせいぜい40人程度となる。3~4軒という集落遺跡もあるので人口が10人前後という可能性もある。
この多くて40人程度の集落遺跡ですべてを自給自足できたのだろうか?私は自給自足とは程遠い姿ではなかったかと考えている。例えば漠然と縄文時代の多くの研究者が考えているように縄文土器はそこの縄文ムラでもつくっていたのだろうか?(あるいは作ることができたのだろうか)全国津々浦々のあらゆる縄文ムラで焼き物を焼いていたという明白な証拠はない。むしろ、近年の考古学会での成果を見ると、特定の大きなムラ(または土器焼きムラ)で土器を焼いて各地にもっていった可能性があるように私には思われる。
土器以外でも縄文時代中期の長野県の遺跡では、当たり前に多量に出土する打製石斧なども善光寺平や上田盆地の遺跡の場合、近くに頁岩があってもあまり使っておらず、遠方にしかない粘板岩が使われている。もちろん黒曜石やヒスイ、ネフライトの装身具などは遠方からもたらされたものとして推定されている。
このように縄文社会とは「小さいムラと大きなネットワーク」ということが言えるように思う。そしてこのネットワークが縄文ムラをささえるのに必要不可欠なものであった。
この事は縄文遺跡の発掘状況においてもある特定の縄文遺跡からその遺跡以外の県の全ての縄文遺跡の出土量を凌駕するものが出てきていることからも推定できる。
縄文土器のある時代の形式や模様は広い地域に伝播していることが一般的に言える。それを私はこのネットワークを焼き物(縄文土器)が中心になって形成された流通の範囲として捉えている。
「縄文ムラの末路」
小さいながらもダイナミックな縄文ムラが順風満帆だったかというとそうではない。縄文時代の前期から中期には多少遺跡数の増減の規模の大小はあるが、大まかにはだんだん大きくなっていく。ところが中期末、後期中葉以降はどうしても遺跡数の数・規模が減ってしまうことは否めない。こうした傾向は長野県だけでなく東日本全体にあることは有名である。逆にこの時代に西日本の遺跡の数や規模が大きくなることもよく知られている。渡辺誠氏はこれを東日本の文化が西日本に流入した結果だと捉えている。私もおおまかにはあたっていると思う。確かに磨消縄文土器、打製石斧、土偶などは縄文時代後晩期に東日本から西日本に伝わっていって、西日本で今度は爆発的に増えている。
しかし、私はこの「文化の伝播」を「人間の移動」ではないかと考えた。考古学のもってまわったいいまわしが前提で「文化の伝播」で何となく説明したような気持ちでいたが、東日本から西日本へ移住・移動があったという事を何故検討してこなかったのだろうか?少なくとも縄文時代にも人間集団の移住・移動の問題を検討しなくてはいけないことに気が付いた。後期の東日本と西日本の遺跡の増減は当時の集団がより温暖な地方へ大量に移動したことを意味しているのではないのだろうか?
今日紹介した部分は250ページに及ぶこの本の書き出しの部分です。
長年の遺跡を通した縄文人への同化の中で著者は縄文時代をかなり的確に捉えておられると思います。今日、紹介した部分を大きくまとめると以下の内容になります。

①縄文時代の定住化は(長野県では)8000年前に始まっている。
②集落の規模は概ね40人程度で少ない場合は10人程度のものまである。
③集落単独で全てをまかなっている事はむしろ少なく、周辺集落とのネットワークの中で共存している。(役割分化が進んでいる可能性もある)
④集落の人口減少は死滅したという可能性もあるが、暖かい地方へ移動したと捉える方が妥当ではないか?

④の部分は著書の中でも最後まで結論は書かれてありませんが、著者は文化の移動ではなく人が移動したのだという事に重きを置いています。
縄文土器の文様が広域に広まったのも人がネットワークを通じて移動して伝播させた可能性があると提示しています。
私はこの40人規模の集落数個の集合体は元々は単一集団であったという可能性が高いように思います。逆に40人という規模は採取生産で生計を維持していくには最大規模だったのかもしれません。縄文中期の多少なりとも外圧が低下したときに人口増をもたらして分派した集団がネットワークとして相互に関わり合ったのではないでしょうか?
従って集落間での役割分担があったり、集団間で共同で何か(例えば鮭の共同捕獲等)を行う事も可能になったと思います。もちろんそのネットワークを延長して贈与や人の交換を行いながら、必要とあれば血縁のない別集団とも繋がっていく事は模索したかもしれません。
縄文「ムラ」の考古学、次回もいくつか新事実(私の中ではですが・・・)を紹介していきます。

投稿者 tano : 2007年10月30日 List  

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コメント

集落集団と村社会の共同幻想はいかにして出発したのか、定住とは何を意味したのか。
その根源にせまる論考がほしい。

投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2014年11月10日 10:04

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