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2010年02月26日
「贈与」に何を学ぶべきか!~6.捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ
😀 くまなです。
前回「贈与」に何を学ぶべきか!~5.ポトラッチの実態の記事で、ポトラッチの風習について紹介しました。今回はポトラッチとは何か、何のために行われているか、です。まずは、これまで云われている諸説の紹介です。
るいネット「捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ」より
ポトラッチは、縄文人の贈与や弥生の銅鐸を考える上でヒントになりそうです。ただこれまで言われているように、ポトラッチ自体の目的や在り方も地域や時代によって変化してきており、観察者によっても解釈が様々です。「自己の名誉と威信を高めるための贈答説」、「富の集中を防ぐための分配制度説」、「酋長が成員の尊敬を高め結束を強めるための分配制度説」、「余剰物を無くすためのもてなし説」、「複雑で高度な一種の交換経済説」、「一種の闘争回避説」など。
どの説も現象面の解釈に留まっているようです。では、ポトラッチの本質は何なのでしょうか?
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るいネット「捧げものが同類闘争圧力により変質したものがポトラッチ」より
ポトラッチの起源が原始にまでさかのぼるなら、神々や精霊への捧げものが原初の姿だったと思われます。何より精霊との期待・応望関係こそが最先端の課題だったはずで、獲物や生殖の恵みを祈って捧げものをし、そして同時に集団の共食の祭りを伴っていったと想定されます。捧げること(=人間は消費しない、使わないこと)が、次第に貴重品の投棄や破壊という行為につながり、共食の祭りが一種の分配制度のように機能していったと考えられます。
精霊(自然)からの恵みに対する感謝(お礼)が原点にある。豊かになると、自然への畏怖の念から余剰生産=自然からの過剰な収奪は悪という思い(自制心)が加わる。それが贈与=喜捨という行為につながる。
何より決定的なのは同類闘争圧力の高まりであり、これに対する解決策としてこの制度が利用され変質していったと思われます。当初は友好関係維持のための贈与だったものが(精霊への捧げものや同朋間の助け合いが同類他者への贈与へと応用された)、次第に自我・私益意識の増大につれて、しかし武力による殺し合いを回避する方法として、競争的な「浪費・贈答・破壊」合戦へとエスカレートしていった。いわば武力を用いないで相手を倒す戦いへと変質していった。西洋人によって観察される頃には、すでに貴族・平民・奴隷からなる階層社会を形成しているが、一気に略奪闘争→武力支配国家へと進展するのを押しとどめていたのが、この原始の風習の名残を残すポトラッチだったのではないでしょうか。
ポトラッチは贈与という本源的な思い(相手が喜ぶことで充足する)がベースにあります。しかし、おそらく私権時代に入って確立したしくみであると思われます。それは、集団の私権追求→蓄積を抑制するように働いているからです。その前提には各集団が「自集団第一」という価値観を持っている、あるいは、そういう意識に陥りやすいという状況認識があるはずです。
そのような状況で私権追求を放置すると、たとえば部族内で私権の大小により格差が生まれ、力の大小による序列が生まれ、支配・被支配という関係が生まれ、さらに自集団(の私益)第一が高じると争いへと発展していきます。そのようなことが過去に実際に起こり、その教訓から導入された仕組みだと思われます。
投稿者 kumana : 2010年02月26日 TweetList
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コメント
投稿者 SAKA : 2010年5月15日 19:38
SAKAさん。コメントありがとうございます。確かに、キリスト教とイスラム教では位相や成立過程が違うようです。前者は、武力国家成立後の支配階級から強制的に生涯固定の身分を押付けられ、身分の低いものが支配階級に対してアンチとして提起されたものであります。後に、支配階級はそれを利用して腐敗して、自らがその呪縛に絡め取られてしまい無能化して行きます。支配vs被支配の対立構造の歴史があり、両者受け入れがたい過去を持っています
方や、イスラムは、否定的なところがありますが、現実判断にて、国家成立前に成立した規範集を厳守するところにあり、キリスト教における自由、平等、平和の思い込みによる倒錯観念に支配されることがなく、支配層・被支配層もアッラーのもとには全て同じとする地平があるように思います。
投稿者 2310 : 2010年5月16日 00:47
>議論の粗探しをして喜ぶだけのしょうもない似非インテリが少なかったことが幸いして、彼らはギリシャ的教養との死闘を経ることなしにエリート層を取り込むことが可能だったのである
イスラムは実=事実を基本とする感じですね。
キリスト教のように時代(自分の都合)に応じて変化するような倒錯観念とは異なる理由の一つを見た気がします。