王権の生産 |
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2010年02月25日
神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った
『ポスト近代市場の可能性を日本史に探る』
新シリーズ「ポスト近代市場の可能性を日本史に探る」をはじめます
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(前半)
古代市場の萌芽は贈与ネットワークにあった(後半)
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神道の広まりが租税を可能にし、市場発達の基盤を作った
西欧の市場発達は、11世紀の十字軍遠征から始まった。巨大な戦費、資材運搬から流通路が発達、商人が教会権力、国家権力を超える力を付けていった。
日本においても、ほぼ同じ時期(中世)に市場が発達していく。しかし、それは大規模な戦争を介して成されたものではなかった。平安末期から鎌倉・室町時代に掛けての中世・市場発達の基盤となっていたのが、律令国家の成立だった。全国規模の徴税システムが、各地に富の集積を生み、集積された富を原資にして市場が発達していく。
(引用元:明夜航記)
そして、律令国家における巨大徴税システムを可能にしたのが、「神道」だった。
■神社を利用した徴税制度
5世紀後半から突如古墳の規模が縮小し始め、ほぼ同時に神社が各地で設立され始める。祖先祭祀の場=集団間統合の場が、古墳から神社へと移行していったのだ。(ヤマトから招かれ日本海地方から大王に就いた継体天皇の時期にあたる。東国地方の豪族のバックアップを受けて即位した継体天皇が、伊勢神宮を設立したとも言われている。) 広範な地域を画一的に統治できる神社ネットワークの広がりにより、国内統合がより安定化していった。
そして、大王家を中心とするヤマト王権は、この神社の祭祀とネットワークを利用し、徴税システムを整備し始める。
(引用元:神社お参りインフォメーション)
古代においては、豪族(の首長)が支配民から生産物(農産物)を徴収していたが、祭祀を主導する豪族の首長は「初穂」という名目で取り立てていた。
その年の最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この初穂の貢納が、「新嘗祭」という形で神社祭祀に組み込まれる(これがあって初めて、次の年の五穀豊穣を祈る「祈年祭」が成立する)。各神社の「初穂」は、それぞれの神官によって中央に「捧げられる」。こうして、中央から地方へと広がる租税徴収システムの原型ができあがった。
(引用元:「昭和天皇による新嘗祭」)
神道祭祀をつかさどる神祇官は、豊年祈願の祭りのほか、祈年祭や収穫を祝う新嘗祭を行うにあたって、まず全国の神社の神官を中央に集め、神に捧げ物(幣帛:へいはく)をした。その後、この捧げ物(幣帛)を地方の神官に配る。天皇が稲穂などの幣帛を、穀物の実りをつかさどる神に捧げるからこそ、神の加護を得られ、これを種籾として農耕に励むことで、豊作が約束される。言葉を換えると、捧げ物をしなければ豊作も約束されないわけだ。国家から地方へ広がるこのようなネットワークを通じて、神の霊力を宿した種籾が百姓に配られた。つまり八世紀に完成した神道は、律令制を維持するための宗教という側面を持ち合わせていたのである。
後に豪族の政治・宗教権限がヤマト王権に剥奪されて律令政府が確立されると、初穂は律令政府を代理する国府に納められる田租(でんそ・「租」)へと転換して、後の租庸調制を構成する1つとなった。
(村落)共同体において、未来の集団の危機に備えて、収穫物を備蓄し管理しておくという体制は当然のようにあった。しかし、「”集団を超えて”生産物を集約する」ことには、抵抗感があったに違いない。『何の為に?』かが固定しはっきりできないからだ。
だから、「”集団を超えて”生産物を集約する」ことを正当化できる観念が必要となる。それが変質した「神道」であり、これは集団を超えた”社会”を統合するための観念でもあった。
■生産物が集約され、市場の基盤が出来上がる
中央から地方へと広がる神社ネットワーク、あるいは徴税システムが整備され、中央のみならず地方諸国(の倉)にも、一定の生産物が蓄積されていく。神社や諸国の倉に貯蔵された生産物=米は、「貸し出される」ようになった。これが『出挙』と呼ばれるものである。
最初に獲れた初穂は神に捧げられ、神聖な蔵に貯蔵される。この蔵の初穂は、次の年、神聖な種籾として農民に貸し出される。収穫期が来ると、農民は蔵から借りた種籾に、若干の神へのお礼の利稲(りとう:利息の稲)をつけて蔵に戻す。この循環が出挙の基本的な原理となる。
律令国家はこれを国家の制度に定着させた(:公出挙)。国衙の蔵に納められた租稲(そとう)が元本になったと考えられており、これを春に農民に貸し付け、秋に利稲を付けて蔵に返される。このような初期金融行為が神のものの貸与、農業生産を外界とした神への返礼として成立していた。
※田租(でんそ)と出挙(すいこ)とを合わせて正税と呼ばれる。
田租とは、税金の一種で、口分田の場合は1段につき2束2把というのがもともとの規定で、大まかに言うと収穫高の約3%。
また、出挙は一種の高利貸しで、お金ではなく、稲を貸し付ける。だいたい春と夏の2回、頴稲という穂首刈りした稲を種もみ用に貸し付け、秋の収穫の時に利息分の稲と合わせて収納するというかたちになる。田租のほうは稲穂からはずした稲穀のかたちにして倉に蓄積していく。その倉がいっぱいになると封をした不動倉として、例えば飢饉が起きた時に出して使用するが、もっぱら蓄積されていく。一方、出挙のほうは頴稲のかたちで運営され、その利稲でもって地方の財源にあててられた。
神社ネットワークから、律令制度下での徴税制度の発達、及びそれらの拠点ごとに富が蓄積され、市場発達の基盤が整った。
西欧や中国では、大規模な戦争によって武力支配国家が成立し、生産財が奪われることで、転覆不可能なほどの圧倒的な富の差が生まれた。日本では大規模な戦争が無かった代わりに強力な中央集権国家が成立した訳ではなかったが、「神社・神道」を利用した緩やかな律令制度により富の蓄積と差異が生まれたことになる。
そして律令制度及び徴税制度による富の蓄積が、中世・市場発達の基盤となったのである。
(ないとう)
投稿者 staff : 2010年02月25日 TweetList
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