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2008年12月18日

日本の神仏習合 ~神と仏の共存

 神仏習合(神仏混淆ともいう)とは、土着の信仰と仏教信仰を折衷して、一つの信仰体系として再構成(習合)することです。一般的に日本で神祇信仰と仏教との間に起こった現象を指します。広義では、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に起こった現象をも指します。
 日本では仏教伝来時は神仏習合がおこなわれますが、約200年後には、神と仏は別のものと認識されながらも、どちらも共存できるように替わっていきます。神仏習合の考え自体は明治時代の神仏分離まで衰えることなく、近現代においても日本人の精神構造に影響を及ぼしています。
日本における神仏習合について述べたいと思います。
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【仏教の伝来時は、仏は蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された】
 552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されました。日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)であるという記録が日本書紀にありますが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたというのをそのまま仏にあてはめたものだと考えられています。
 寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏には祟るという概念が無いため神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できます。
【神宮寺の建立 ~苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となった】 やがて日本人が、仏は日本の神とは違う性質を持つと理解するにつれ、仏のもとに神と人間を同列に位置づけ、日本の神々も人間と同じように苦しみから逃れる事を願い、仏の救済を求め解脱を欲しているという認識がされるようになりました。715年には越前国気比大神の託宣により神宮寺が建立されるなど、奈良時代初頭から国家レベルの神社において神宮寺を建立する動きが出始め、満願禅師らによる鹿島神宮、賀茂神社、伊勢神宮などで境内外を問わず神宮寺が併設されました。
 また、宇佐八幡神のように神体が菩薩形をとる神(僧形八幡神)も現れました。奈良時代後半になると、伊勢桑名郡にある現地豪族の氏神である多度大神が、神の身を捨てて仏道の修行をしたいと託宣するなど、神宮寺建立の動きは地方の神社にまで広がり、若狭国若狭彦大神や近江国奥津島大神など、他の諸国の神も8世紀後半から9世紀前半にかけて、仏道に帰依したいとの意思を示すようになった。こうして苦悩する神を救済するため、神社の傍らに寺が建てられ神宮寺となり、神前で読経がなされるようになりました。
【私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められ、構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっている大乗仏教が普及する】
 こうした神々の仏道帰依の託宣は、そのままそれらを祀る有力豪族たちの願望であったと考えられています。律令制の導入により社会構造が変化し、豪族らが単なる共同体の首長から私的所有地を持つ領主的な性格を持つようになるに伴い、共同体による祭祀に支えられた従来の神祇信仰は行き詰まりを見せ、私的所有に伴う罪を自覚するようになった豪族個人の新たな精神的支柱が求められました。大乗仏教は、その構造上利他行を通じて罪の救済を得られる教えとなっており、この点が豪族たちに受け入れられたと思われる。それに応えるように雑密を身につけた遊行僧が現われ、神宮寺の建立を進めたのだと思われます。まだ密教は体系化されていなかったが、その呪術的な修行や奇蹟を重視し世俗的な富の蓄積や繁栄を肯定する性格が神祇信仰とも折衷しやすく、豪族の配下の人々に受け入れられ易かったのだろうと考えられています。
【寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになる】
 神社が寺院に接近する一方、寺院も神社側への接近を示しています。8世紀後半には、その寺院に関係のある神を寺院の守護神、鎮守とするようになりました。710年(和銅3年)の興福寺における春日大社は最も早い例です。また、東大寺は大仏建立に協力した宇佐八幡神を勧請して鎮守とし、これは現在の手向山八幡宮です。ほかの古代の有力寺院を見ても、延暦寺は日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社などといずれも守護神を持つことになりました。
 この段階では、神と仏は同一の信仰体系の中にはありますが、あくまで別の存在として認識され、同一の存在としてみるまでには及んでいません。この段階をのちの神仏習合と特に区別して神仏混淆ということもあります。数多くの神社に神宮寺が建てられ、寺院の元に神社が建てられましたが、それは従来の神祇信仰を圧迫する事なく神祇信仰と仏教信仰とが互いに補い合うかたちとなりました。
【朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから推進した】
 これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて確立しようとしていましたが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来すると見られている租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなりました。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院として認められることを望むようになってきました。
 朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進しましたが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説を整えた中央の大寺院として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗でした。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進みました。この一方で、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなりました。
【神本仏迹説の登場】
 鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を唱える伊勢神道や唯一神道が現れ、江戸時代には朱子学の理論により両派を統合した垂加神道が誕生しました。これらは神祇信仰の主流派の教義となっていき、神道としての教義確立に貢献しました。
【明治時代の神仏分離】
 神仏分離令は仏教排斥を意図したものではなかったのですが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれました。地方の神官や国学者が扇動し、檀家制度のもとで寺院に搾取されていたと感じる民衆がこれに加わりました。
 政府は神道国教化の下準備として神仏分離政策を行ないましたが、明治5年3月14日(1872年4月21日)の神祇省廃止・教部省設置で頓挫し、神仏共同布教体制となりました。
 廃仏毀釈運動は明治以降、第二次世界大戦の敗戦まで一部の過激な神道家とこれに追随した一部民衆が行ったものの、一部地域を除き、民衆には普及しませんでした。現代でも神社と寺院の違いが判らない者も多いはずです。中には神仏習合の風習を受け継いだり復興させたりするところもありますが、神道、仏教のそれぞれの内部では、お互いに忌避するむきもあります。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、義江彰夫 『神仏習合』(岩波書店 1996年)

投稿者 norio : 2008年12月18日 List  

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コメント

弥生ー縄文を区分けするのは歴史家だけです。
他の時代区分と異なりこの2つの時代は生産様式と土器の様式の違いだけで区分けされています。私自身は最近わかってきたのですが、弥生時代に始まった稲作文化の生活様式などの変化が列島にほぼ定着したのが古墳時代の始まりの頃のようです。
定着するのに弥生時代600年がかかったということは、結構長い年月がかかったという事を意味しているのではないかと思います。
日常生活の原型は、縄文時代にその基本がすでに作られ継承されてきたのである。⇒たぶん当たっていると思います。
それは特に歴史的事実が無くても、普段、私たち自身が感じているということだけでも十分な証拠だと思います。
今年もさーねさんの縄文節、楽しみにしています。

投稿者 tano : 2009年1月13日 22:44

tanoさん
>弥生ー縄文を区分けするのは歴史家だけです。
やはり権力を対象化してしまうからでしょうか。恐らく、一般庶民の営みはかけ離れているかもしれません。
>今年もさーねさんの縄文節、楽しみにしています。
縄文節になってるでしょうか^^;?
今年も頑張ります!

投稿者 さーね : 2009年1月19日 23:39

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