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2008年09月27日

蘇我氏の歴史隠蔽のために日本書記は4人のうち2人は中国人が担当した

 
 天武天皇が六八一年に日本書記の編纂を命じました。そしてできあがったのは七二〇年です。その間三九年。多数の編纂者が参加しました。それでもできあがった書紀を直接書いた人物はそんなに多くはなく、実は計四人をかぞえるにすぎないそうです。
 それは誰か。
森博逹『日本書紀の謎を解く』(中公新書)によって紹介します。
 
 山田史御方
神代から二〇代天皇安康までと三三代推古天皇、三四代舒明天皇。四〇代天武天皇を担当しています。
 続守言
二一代雄略天皇から三二代崇峻天皇までを担当しています。
 
 薩弘恪
三五代皇極から三八代天智天皇までを担当しています。
 
 紀清人
四一代持統天皇を担当しています。
 
以上の4人です。そのうち続守言薩弘恪の2人は中国人だそうです。
 この2人の中国人が書いた日本書記についての問題を、建築家渡辺豊和氏が「日本書記の罠」http://www5.ocn.ne.jp/~toyokazu/jpn/nswana/nsw-00.htmlで提起しています。
 この2人の中国人が書いた部分は、
事実を改変する必要があった部分、=蘇我氏の歴史隠蔽
中国、当時の唐王朝に日本歴史を認めさせるため
という理由があったのではないかと解説しています。
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 2人の中国人の紹介
 

ここで問題になるのは続守言と薩弘恪の中国人だ。
 続守言は天智天皇が新羅、唐の連合軍と戦い大敗した白村江の戦いで捕虜となったものだ。薩弘恪の来朝の経緯は不明らしい。
 続守言も薩弘恪も日本書紀編纂に集中して関るのは文武天皇時代でもうこの頃には藤原不比等が権力者になっている。不比等はフヒトと読むが、史(フヒト)であって史書編纂が専門だった。持統天皇にはその身分で仕えたらしい。文武天皇時代は天皇が若く不比等は相当の権限を与えられていた。
 続守言が担当した雄略から崇峻までは本書(日本書記の罠)で蘇我氏が天皇家を圧倒し王権を握る時期。薩弘恪担当の皇極から天智までは本書でこの母子の出自に大きな疑問があり書紀の記述とは違う結論に達している部分だ。勿論雄略から崇峻も同様本書は書紀とは違う結論になっている。

中国人が担当した理由
 

本書で最も疑いを抱いた部分がどうしてか二人の中国人が担当している。これをどう考えたらいいのか。
 二人の中国人は「音博士」の称号を与えられ正確な中国語文章を書くのが仕事だった。『日本書紀』も漢文で書かれている。書紀は中国、当時の唐王朝に日本歴史を認めさせるために書かれたから文章も正確な中国語である必要があった。
 
 確かに二人の中国人の文章は正確な中国語だが日本人二人の文章は相当怪しいらしい。森がそう分析している。中国人は日本の歴史は知らないし色々複雑な王朝の故事来歴など知るはずもあるまい。彼らは多分藤原不比等のいうままに文章を書いたのだろう。逆に藤原不比等は天武が編纂させた原『日本書紀』のうち改変させたいところを二人に担当させたのではないか。
 特に薩弘恪は来朝の経緯も不明というのだから不比等には扱い易い存在だったのではないか。だから最も改変の必要のあった皇極、天智を担当させたに違いない。
 雄略から崇峻までだってその間の蘇我氏の行跡や業績を改変、抹殺する必要があった。しかしこれは天武自身がすでにやりおおせていた可能性が高い。それでも天武天皇の皇后持統天皇は蘇我氏の娘でもある。まず皇后に対する配慮もあっただろう。不徹底でなかったか。それに後を継いだ独裁色の強い女帝持統天皇は書紀編纂にも関与したはずだから自分の母の一族のことが余りに歪曲されるのには抵抗もあり改変、抹殺がさらに不徹底になったかもしれない。
 持統が死んで完全な文武天皇治世になってそれを不比等は続守言に命じて徹底させた。それでは二人の日本人はどうか。
 山田史御方はフヒトで歴史の専門家だ。彼は神話時代からその当時の歴史には通暁していたはずだ。それなのに雄略から崇峻までを外されたのは知りすぎていたからに違いない。それでも蘇我氏が大王だった推古、舒明時代を任されたのは本来はこの担当だっった続守言が急死したからだ。もともとはなかったはずの推古天皇時代の聖徳太子の活躍などを書かなければならなかったのは歴史家としては無念だったかもしれない。
 推古、舒明、皇極は天皇ではなかったはずだ。雄略の次、二二代清寧天皇や二九代欽明から三二代崇峻までだって本当に天皇だったかどうかわからない。その間ずうと蘇我大王だったかもしれないのだ。二三代顕宗から二五代武烈までは彼らそのものが蘇我氏の大王だったのだ。それだから不比等はこの部分を続守言に担当させたのだ。
 持統天皇だけが紀清人。森はこの部分が執筆が遅れていたから紀清人になったといっている。
 それもあろうが持統天皇は文武天皇の祖母で文武を天皇にするために大変な苦労をした。また父藤原鎌足が少年時代に死に孤児となり不遇だった不比等を救い上げてくれたのは持統天皇。
 文武天皇も不比等も持統には特別の思いがあっただろう。
 それで持統だけはできるだけ潤色させたかった。それでここだけは他とは違う担当者にしたに違いあるまい。

投稿者 norio : 2008年09月27日 List  

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コメント

ご無沙汰いたしております。
こちらのブログ以前ご紹介して頂いた『日本史探求』の管理人Mr.Misakiです。
黒岩氏の『古代史の真相』は私も過去に一読したのですが、すっかり内容を忘れていました。確かに継体については政権の磐石化を図る豪族連合に担がれる形で即位したというように記されていた記憶があります。
このようにテーマを絞ってまとめた記事を拝見すると、あらためて継体天皇の存在について考えさせられます。
雄略亡き後から継体即位までの期間が権力の空白期という見方も実に興味深いです。
今後も継体についての記事を期待しています。

投稿者 Mr.Misaki : 2008年11月9日 17:31

misakiさんお久しぶりです。そうですね、1年ほど前に貴方のブログを紹介させていただきました。懐かしいです。
「日本史探求」は非常に熱心に追求されているブロクだと記憶しています。
その頃は縄文時代の投稿で繋がっていましたが、そう言えば継体天皇の事をたくさん調べておられたのですね。
継体天皇の謎はまだ仮説に至ったばかりです。るいネットで私の方でいくつか投稿していますのでぜひそちらの方もご覧になって下さいませ。。
継体天皇の謎(仮説の整理)~たたき台として
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191015
継体天皇はなぜ担ぎ出されたのか?~物部の思惑と結末
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191542

投稿者 tano : 2008年11月9日 22:44

『継体天皇の謎(仮説の整理)』
を拝見いたしました。素晴らしい!
半島での出来事と天皇の系統をリンクさせ、かつ磐井の乱にもそれ根拠を求めているところは説得力のある仮説であり、私自身も支持したいと思う次第です。
最近は江戸時代ばかりに夢中でしたが、また古代史に夢中になりそうです。

投稿者 Mr.Misaki : 2008年11月9日 22:53

黒岩重吾さんは、プロの小説家でしたね。

投稿者 高塚タツ : 2008年11月11日 23:22

高塚さま
指摘と受け取ります。
黒岩さんの私説に惑わされるなかれということですね。

投稿者 tano : 2008年11月12日 00:57

タツとお呼びください。
黒岩さんの影響力への賛嘆の声といいますか、
おのれの無才へのタメ息です。

投稿者 高塚タツ : 2008年11月12日 17:22

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