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2009年01月03日

「●●してください」と神社にお参りするのは、間違い?!

あけましておめでとうございます。
みなさん、初詣はもう行かれましたか?
何年か前、「神社に、『●●して(させて)下さい』と参拝するのは間違い。『●●するから、見守ってください』と参拝するのが正しい」と教えてもらった事がありました。確かに、お墓にお参りした時に「お願い」することはないですよね?
これを教えてもらったときから、「では、なんで現代の日本人はお願いをしに神社に行くのか」が疑問としてずっと残っていました。この間、神社の成立過程の歴史を追求することで、徐々に鮮明になってきました。

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■神社は何を祀っているのか?
神社は日本人の「神」の意識と密接に関連していると言われています。普通は、八百万の神が祀られていると考えています。しかし、神社の「言われ」「由来」をよく読んでいくと、一つの神社にたくさんの神が祭られていることは無く、中心にいる神は大低一つです。
この神は、系列の神社で共通しており、伏見稲荷を頂点とする稲荷系、宇佐八幡大社を頂点とする八幡系などは、同一の神が祭られています。
神社は、古墳時代後期に、古墳に替わる祖先祭祀の場として登場しました。ですから、神社に祀られている「神」は、元を正せば、どこかの氏族の首長が神格化したものです。私たちは、その神をお参りしていることになります。
■なぜ、神社にお参りしていたのか?
古墳時代以降の人たちが、神社にお参りしていたのはなぜでしょうか?
当時の神は、日本書紀や古事記にも書かれているように、神というのは「あらぶるもの」として意識されていました。「神が怒ると、自然災害が起こる」と。自然災害が起こると、この神の怒りを静めるためにお参りし、安定した生活を記念する場が神社でした。

自然災害をできるだけ抑えて安定した生活を送りたいという当時の人々の意識と、神格化された氏族の祖先を中心とした地域統合が一体となっていました。

■神社が変質したのは、なぜか?
氏族・豪族が支配域を広げていく際にも、神社は使われることになります。(太平洋戦争時に日本軍が東アジア地域に神社を設立したことも、アジアに進出してきた欧州諸国が何よりもまず教会を設立したことも同じ理由です。)
地域の人たちが(新たに設立した)神社にお参りすることで、自然と神社が形成する統合域に組み込まれていくことになるからです。
豪族の合議体制の元で運営されていたヤマト王権から、「天皇」を頂点とする律令制への移行する過程でも、神社ネットワークによる統合は進んでいきました。「都」を中心として、無数の神社が設立されていきます。
また、この時期は、聖武天皇が始めた仏教を使ったネットワークも、その支配域を拡張していきました。東大寺を頂点とする全国各地の国分寺がそれにあたります。新たに表舞台に登場した仏教における参拝対象は、「参拝しなければ怒ってしまう→自然災害を起こす」ものではなく、「参拝すれば、見守ってくれる→安定した生活が送ることができる」というものでした。実際、自然外圧をある程度克服しつつあった人類にとっては、仏教の方が身近に感じたのでしょう、神社以上の広がりを持つようになります。
無数に作られていった神社、また仏教の広がりによって、神社もその質を大きく変質させていきます。
■現世利益を約束する「神社」へ
建前上は「平等」であった神社も、数が増えると、そのままでは統合できません。そこで、律令制の整備と歩みを合わせて、神社に「位」をつけていきます。伊勢神宮を別格とした神階制の導入により、(特に下位の神社においては)中央からの支配が弱まることになります。
また、仏教の広がりと共に、「神」のありようも「あらぶるもの」では立ち行かなくなっていきます。当時の文献でも、「神の悩む様子」が克明に記されています。
中央からの支配が弱まり、同時に従来の神のあり様が見直されることで、神社は「現世利益(常世の利益)」をアピールすることで、参拝者や信者を獲得していきます。
この時期、特に各地に設立されたのが「神宮寺」でした。現世での利益を約束するものとして位置づけられた神社は、その後も大量に設立されていきます。
祖先祭祀の中心としての神社であれば、(祖先に)「見守ってください」というのが正しいお参りにあり様になります。しかし、現在の神社のほとんどは、律令制国家の成立と共に「支配のために」作られたのもがほとんどです。ここでは、「現世利益を約束する」ことが、神社の存在意義となっていきました。
過去の人類(や、その前の生物)への感謝が、現世利益に結びついていった(変質して行った)事は非常に興味深い点です。
現在の人類も、過去への感謝、今までの歴史への感謝は欠かせません。「神」といった(現実から遊離した)概念ではなく、事実どうなっていたのかを深く知ることでも、歴史への感謝は可能です。
年に一度の初詣も大切かもしれませんが、日常からの歴史事実の追求(⇒その構造)からくる感謝も忘れずに2009年を過ごしていきたいと思います。

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<参考>
国家統合と神社の歴史1 祖先祭祀の中心が古墳から神社へ
国家統合と神社の歴史2 伊勢神宮は、なぜ特権的な位置を有し続けたのか?

投稿者 staff : 2009年01月03日 List  

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コメント

はじめまして、史郎です。
半島から王家が来たということは、肯定できると思います。
私は、地元(信州伊那谷)の大御食神社に伝わる神代文字の社伝記《美社神字録》の解明をしておりますが、その切り口からいくと、半島からの来訪者以前に、高千穂朝の活躍があったことは間違いないと確信しております。HPは、http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage1.html
です。そこで、その証明を試みております。
例えば、古代文字が存在したが、帰化王族の焚書にあった。
また、古代からの豪族は、移封され、消されてしまった。
と考えております。
まだ緒に就いたばかりですが、だんだんと・・・・・。
また、投稿させていただきます。

投稿者 史郎 : 2009年2月5日 16:48

秀吉の朝鮮征伐でも兵站ボロボロですからね。
強大な王権が計画的に渡海という危険を犯してまで侵攻となるとどれだけの船・兵員・武器・糧食が必要かということを考えると簡単な話じゃないような気がします。
国家単位じゃなく、部族レベルでの小規模な移住が波状的に繰り返され、それが収斂されつついくつもの小国家が乱立したかも知れません。
また、箕子朝鮮・衛子朝鮮や楽浪郡などシナ人が半島に深く関与してましたから、シナ本土の政変により難民化し、敗戦時の日本国民のごとく現地の土着民や本土からの新しい権力者に追われて命からがら、日本列島へ渡ったシナ人も多かったはずです。
それらが、大陸から持ち込んだ文化・技術により生産が拡大され人口も急増化し、やがて国家間で大乱状態に。
比較的同じような集団で政略結婚や合従連衡がおこなわれる過程で半島の国家と結んだり、縄文系国家・集団との電撃的な融和などもあったでしょう。
結果として、九州や山陰などの国家が海の向こうに安全保障を求めるのは自然の成り行きと思えます。
ある時期までは、楽浪郡と結ぶのがもっとも権威があったはずで、半島(おもに南部)や日本(おもに九州)の小国家は楽浪郡のもとに平和的均衡をもたらしてたでしょうが、シナ王朝の没落と高句麗の勃興により楽浪郡が消滅。
こうして、謎の4世紀に突入。
高句麗の南下圧力により、三韓地域といわゆる倭国が中央集権化し、なかでもシナ系の移民により文化レベルを高め国力を蓄えた倭国は半島南部の倭人に近い土着民やシナ人系コロニーと連携し高句麗と対峙。
そして、倭の5王の時代へ。

投稿者 hori : 2009年2月6日 08:37

はじめまして、史郎さんレスありがとうございます。
>その切り口からいくと、半島からの来訪者以前に、高千穂朝の活躍があったことは間違いないと確信しております。
出雲や高千穂に古代王朝があったという説はたまに聞きますが、そのような説に共通する史実となる根拠は何なのでしょうか?また史実にいたらないまでも仮説でも根拠をお教えいただけると助かります。
今後ともよろしくお願いします。

投稿者 tano : 2009年2月7日 20:42

horiさん、返信ありがとうございます。
倭国=シナ人の移民集団という見方はありえますね。
同じシナ人でも倭国へ到着したのは北方系なのでしょうか?それとも南方系なのでしょうか?
私は南方系ではないかと考えていますが・・・。

投稿者 tano : 2009年2月7日 20:49

tanoさんどうもです。
私も倭人の主流は南方だと思います。
①北上し、九州および太平洋沿岸に達した。
②北上し、朝鮮南部および日本海沿岸に達した。
このうち、朝鮮南部に達した一派は日本海沿岸の諸勢力と交易をしながら繁栄をほこったかと思います。
やがて半島においては濊(扶余)系部族が盛んに南下。
高夷は濊系部族と同化し、高句麗へ発展。
衛子朝鮮の地には楽浪郡がおかれ、後に公孫氏が台頭。
魏志倭人伝の時代は公孫氏の支配に陰りが見え、
他の濊系部族を圧倒しはじめた高句麗。
三韓に君臨する馬韓、辰韓、弁韓。
三韓のうち馬韓は中原・南方にルーツのあるシナ人が濊人などと一体化したと考えられます。
さらに、南に弁韓は西回りでなく東回りの南方シナ人(呉・越)のコロニーが鉄を押さえるとともに高い文化力で発展し、ある意味で馬韓・辰韓を圧倒してたかも?
かような状況で邪馬台国連合が成立するのは単なる偶然とは思えなく、混迷する半島情勢を反映していた可能性を考えるのは自然の流れと言えましょうか。
楽浪郡の終焉に至り、半島南部の古い濊貊系諸族やシナ系集団は倭国との関係を深めるほか生存の道はなく、急速に集権化。
倭国は国力を高め、一体化する南韓地域で一定の主導権を掌握し、高句麗と激しい争いを展開。
ただ、好太王の碑文にある倭の軍は、三韓の地に土着した濊貊系諸族の後裔と倭人系の部族が一体化したものだと個人的に考えてます。
一種の十字軍遠征みたいな趣きを感じたりします。
個人的には倭人のルーツは越人(百越)で、
倭国となると越人のほかに西回りのシナ系集団や
濊貊に縄文系などが含まれるかかと思います。
倭国王・帥升から卑弥呼に至る倭国の主流派である越人系がもたらした古の文化・技術を補填する形すべく、新参の華僑が中原の最新技術や文化を持って倭国の運営に加わりはじめたのが3~4世紀の状況か?
後漢滅亡と三国の盛衰、五胡の侵入、高句麗の台頭…。
動乱を背景に中原の高い文化・技術が日本列島に流入。
また、故地を追われた移民たちは新天地で生活基盤を確立するとともに凄まじいエネルギーが大和政権を誕生たらしめたのでしょう。
以上、勝手な世迷言ですが、単純に半島の一勢力が征服を企てて列島へ侵入し、平定したなどという単純なものでないことは確かだと思います。

投稿者 hori : 2009年2月11日 09:06

horiさんありがとうございます。
>以上、勝手な世迷言ですが、単純に半島の一勢力が征服を企てて列島へ侵入し、平定したなどという単純なものでないことは確かだと思います。
まったく同感です。
弥生後期から古墳前期を現在調べているのですが、決め手となる情報も少なく苦慮していました。中国(シナ)、高句麗、倭(又は伽耶)という関係で東アジア全域を俯瞰していく見方が必要ですね。
その中で日本列島とはまさにすさまじいエネルギーが集約・醸成されていく初期段階にあったのだと思います。その下地があってその後6世紀~8世紀の国家統合段階に一気に入ることができたのだと思います。
その意味ではあれだけの量・規模の古墳はまさにエネルギーの象徴ではないでしょうか?
horiさん、今後もよろしくお願いいたします。

投稿者 tano : 2009年2月12日 12:28

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