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2009年01月04日

「騎馬民族征服王朝説」に対する反論紹介

昨年、姉妹ブログの「知られざる人類婚姻史と共同体社会」で4回に渡り騎馬民族征服王朝説の紹介がありました。なるほどと思う部分は多々あったのですが、まだしっくりこない部分もあります。
果たして本当に騎馬民族が征服王朝としてその後日本の歴史を作ってきたのか
騎馬民族(扶余族)が日本に流れてきたというのは間違いないと思いますが、征服したのか否かの詰めの部分についてはもう一段の追求が必要になると思っています。
以下「知られざる・・・」の記事です↓
騎馬民族は来たのか?(序) 『東北アジア騎馬民族系王朝の日本征服・大和朝廷樹立説』の登場
騎馬民族は来たのか?①騎馬民族系王朝による日本征服説の骨子
騎馬民族は来たのか?② 騎馬民族系王朝による日本征服説の証拠!?
騎馬民族は来たのか?③ 江上氏騎馬民族説のバックボーン ~遊牧民族・騎馬民族の文化的特性・民族的気質~
江上氏の騎馬民族征服王朝説は「5世紀古墳の馬具の副葬をもって、騎馬文化を擁した扶余部族が加羅を拠点に日本征服を目的に渡来した」という説です。この説については学会内でその後、相当に反論が出ていまだ決着をしていない訳ですが、反論の立場に立つ説を一つ紹介しておきたいと思います。
白石太一郎という考古学者の見識です。著書「古墳の語る古代史」より、その一部を紹介させていただきます。
白石氏は弥生以降の日本文化は受容の歴史だと言います。大陸文化は一旦日本へ入るものの、日本式に加工、再編され当初の文化とは変質して受け入れられていきます。騎馬民族が渡来したと言われる五世紀の馬具の受容もそれ以前の弥生時代、古墳時代の受容の延長にあると捉えています。
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四世紀の倭風文化は古墳時代の5世紀には大きな変化を迎える。それは高句麗の南下に伴う朝鮮半島の激動の大きな波が日本列島にまで押し寄せた結果に他ならない。
その変化は古墳の副葬品の中に現れる。前期には全くみられなかった、馬具が出現し、さらに短甲や兜などの武具、金銅製帯金具などが現れ、鉄剣に変わって鉄刀が多くなる。
九州の古墳には横穴式石室が採用され、5世紀の中頃には近畿地方にも及ぶ。
これらの変化を有力な根拠にして江上波夫氏によって主張されたのが騎馬民族征服王朝説である。
しかし、先に述べた古墳時代のさまざまな変化も詳しく調べてみるときわめて斬進的な変化であり、それは4世紀末から5世紀末に至る長い期間をかけて徐々に変わっているのである。したがって、その背景に江上氏が構想したような騎馬民族による征服・建国を想定することはまず不可能といわざるをえない。日本古代文化とは重層構造であり、旧石器・縄文・弥生文化の上に五世紀以来の朝鮮渡来文化も重なり合って成立しているのである。

一方、騎馬文化を始めとするさまざまな新しい文化の受容は何を契機にして行われたのであろうか。この新文化受容の直接的契機になったのは高句麗の南下にともなう朝鮮半島の動乱である事は確かであろう。高句麗の南下が百済、新羅や伽耶諸国に衝撃を与えたことは言うまでもないが、鉄資源を朝鮮半島南部に頼っていた倭国にとっても無視できない重大な出来事であった。広開土王碑文にも見られるように、倭国が利害を同じくする百済と共に高句麗軍と接触したことは確実であろう。このような高句麗軍との直接の戦闘が倭人たちに馬匹や馬乗技術に対する強い関心を引き起こしたであろう。騎馬文化の受容は騎馬民族の渡来を考えなくても十分に説明がつくのである。
五世紀中葉以前の馬具副葬古墳がそれ以降の時代のものに比べて、きわめて少ない事もこれを裏つけるものであろう。

一方、こうした朝鮮半島での軍事行動への参加によって必然的に倭国は東アジア世界の国際的舞台に登場することになる。倭の五王による中国南朝への遣使が、朝鮮半島南部における倭国の軍事的支配権を中国王朝に認めさせ、東アジア世界で少しでも有利な地位を確保するためのものであったことは多くの研究者より指摘されている。
このように5世紀の倭人たちは積極的に朝鮮半島を渡り、馬具、武器、装身具、陶磁器やそれらの製作技術、横穴式石室などの葬制、漢字による表記技術、さらには信仰やさまざまなイデオロギーに至るさまざまな文物や技術を受け入れたのである。
ただ、それらの受容は倭人が朝鮮半島に渡って獲得・習得したものばかりでなく、戦乱の朝鮮半島を逃れてきた多くの人々を、渡来人として受け入れることで達成されたものも少なくなかった。

白石氏は朝鮮半島に倭人が出向いて馬術戦闘の技術を取り込んだとの事でありますが、これに対して以下の単純な疑問が起きます。
元々半島の戦乱で逃げてきた渡来人がいくら鉄の為とはいえ、わざわざ危険な戦地に足を運んで、新しい戦術や道具を獲得する余裕があったのでしょうか?むしろ、伽耶と北九州は倭国として一体のものであり、朝鮮動乱に北九州の倭人も借り出され、朝鮮半島での高句麗や新羅との一戦を通じて遅れながらも新しい戦術を取り入れざるを得なかったという辺りが妥当ではないかと思われます。
いずれにしても馬具と武器を携えて扶余人が日本列島に到来し、支配したという江上氏の一説にはこのように反論が出ていることを紹介しておき、今後の展開に委ねたいと思います。

投稿者 tano : 2009年01月04日 List  

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