| メイン |

2009年03月04日

高地性集落ってなに?

農業生産(稲作)には適さない山地の頂上や斜面に形成された集落を「高地性集落」と呼びます。
高地性集落の本当の姿はいまだに良く判っていない部分が多いのですが、「戦の備え」であったと見られています。

弥生の中期 北部九州から瀬戸内沿岸の高台や瀬戸内海の島に出現し、その後規模を拡大して 日本各地に伝播し、大和の勢力が強くなると共に消えていったようです。

この高地性集落の出現の変遷を見ると、鉄の輸入と何らかの関係があったようにも思えます。

日本の鉄の歴史は5世紀半から6世紀を境に大きな変化を迎える。
それまでの鉄は専ら、半島から鉄素材を輸入し、渡来人の鍛冶技術を注入して畿内、九州中心に鍛冶工房を営み、国内の鉄を調達していた。弥生時代には鍛冶工房は方々にあったが、まとまった製鉄施設は確認されていない。
鉄を制するものが天下を制す!

続きにいく前にクリック をお願いします。
Blog Ranking にほんブログ村 歴史ブログへ

 にほんブログ村 歴史ブログへ


高地性集落は平地より数十mも高い山頂部や斜面に形成されており、水田耕作の始まった弥生時代においては、不向きな場所であったこと予想されます。
また、礫や石鏃などの武器やのろし台などが出土することからも、高地性集落は平地の集落と連携して戦さに備えた集落と考えられています。

ちょうどこの弥生中期は、弥生の人口が急速に増え、水田耕作が安定してその生産性を高めてゆく時代であり、朝鮮半島からもたらされる鉄器もその実用性を増してくる時代でした。

以下「高地性集落」より抜粋し引用します。

高地性集落は低地を見下ろし、また、近辺の高地性集落の見える位置に作られていることが多い。
したがって、眼下の情勢を見張るだけでなく、連絡にも便利なようにできている。
高地性集落にはその最高地点に焼け土の跡が発見されているが、これはノロシ台であると考えられている。
瀬戸内海沿岸地域の高地性集落を使って北九州から大阪平野までノロシを使った実験をした結果、わずか数時間で伝達できることが判明した。

このように、高地性集落は情報伝達基地のような役目を担っていたものと思われている。
場所によっては集落内に炉と思われるようなものが確認でき、中で武器の製造を行っていたとも考えられている。

また高地性集落は機能的には、防衛主体の集落と農耕主体の集落、さらにそれぞれを複合的に組み合わせた集落に区別できる。

下の分布図は、主に防衛的機能の高地性集落の分布変化である。










文化小期高地出現期分 布 地 域
縄文晩期第1期北西部九州に高原性集落出現

Ⅰ期第2期瀬戸内北岸に高地性集落出現
Ⅱ期第3期北部九州から瀬戸内に高地性集落出現
Ⅲ期九州、山陽、四国、畿内、州部、関東地方にかけて高山性、
高原性、高地性集落出現、特に瀬戸内に密度が高い
Ⅳ期第4期中部・東部瀬戸内、四国、畿内、紀伊水道東岸にわたる
畿内系土器の分布圏に分布
Ⅴ期第5期中部瀬戸内から畿内にかけての地域と紀伊水道の東岸に分布
—————————————————-
九州、山陽、四国、畿内、中部、関東、東北地方に出現
第3期に似た分布を示す
古墳前期

古墳中期
古墳後期

第6期

西日本にごくまばらに分布
—————————————————-
南部九州に出現








【第Ⅲ期~第Ⅴ期の防衛的高地性集落分布図】
kouchi1.gif
kouchi2.gif
kouchi3.gif

また、高地性集落を平野や海を広く眺望できる場所に立地しており、瀬戸内、大阪湾など海からの侵入に備えていたことが分かります。

つまり、高地性集落の立地や、鉄の輸入を行っていた時代背景(鉄を制するものが天下を制す!)を考えると、鉄をめぐる略奪が日常的に行われており、それらを防ぐために水田耕作には不向きな高地に集落を設ける必要があったのではないでしょうか。

投稿者 yoriya : 2009年03月04日 List  

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/03/745.html/trackback

コメント

ツングースとモンゴルぐらいしか知りませんでした。
こんなにあったんですね。
これらの一族?の性格(生活形態等)が分かれば面白いかもしれません。

投稿者 ヤマト : 2009年4月13日 14:28

ヤマトさん
そうなんですよね。確かに、性格がわかると面白いですね。調べてみます!

投稿者 さーね : 2009年4月16日 19:07

韓国人系の似非学者どもが、やはりアメリカの雑誌を通じて全ての日本人は韓国から盲目的に渡来してきた落ち人等と出鱈目を吹聴したり、Yap自体の人口が日本国内では4割程しか確認できない為、やはり日本人は韓国の属国民族(かもしれない)~などと吹聴する荒唐無稽なプロパガンダが発生しているようだ。
 この問題について顕著なことは、所謂Y遺伝子(Yap、o、その他)を比較して、古代日本本土のほとんどの雌個体の遺伝子が渡来系だという事実を無視していることにある。調べて確認したが、特に本州など渡来系の雌個体が全体のほとんどを占めている地域において、Yapなど所謂本土人系のY系統である遺伝子が、本来o型因子の雌個体であるはずの韓国人系に食い込んでいる頻度が大きいという事例である。これは当時の日本本土人におけるミトコンドリアの遺伝子が明らかに渡来系、所謂韓国人系の雌個体であるのに対し、Yapやその他など、o以外の雄遺伝子を持った個体が雌を大多数獲得している事実が出現するのだ。更にはアイヌや東北、沖縄、南九州等の所謂先住の人々は、ミトコンドリア遺伝子で雌個体を比較した場合、当時の本土人よりも渡来系とは差が大きいのである。現実的に、本土人の”雌”個体のミトコンドリア遺伝子は、ほとんどが中国人系、韓国人系の渡来系であったのだ。
即ち、所謂縄文系と呼ばれる人種の雄個体が、本土の雌人口の内、人種が異なる渡来系の雌と交尾することができた状況証拠であり、これは所謂縄文系と呼ばれる人々が雌を獲得するのに有利な社会的地位を獲得していたことを意味しているのである。即ち、韓国人系達は、わざわざ半島から雌個体を日本に提供してくれたという無様な結果が明らかになるのだ。
 確かにデータを見る限り、日本人の大多数の男子がYapを持っており、社会的地位を獲得するに至ったという評価は過去の系統を完全に調べない限り不明確ではあろうが、だからといっていくら当時の中国人系、韓国人系渡来人がいくら御人好しで、本土の縄文系に雌個体を別けてあげたと仮定しても、まさか雌の全人口の内半分近くをむざむざ渡すくらいに御人好しと言えるかは、はなはだ疑問である。即ち、確かに中国人系、韓国人系達(D系統の雌雄)は日本に流れ着いてきたのだが、周囲の本土人を追いやったという証拠については全くガセで、現実には社会的地位を縄文系に奪われた為に、仕方なく雌を謙譲せざるを得ない状況であったと言えるのだ。日本の歴史の中で度々皇族に自分の娘を謙譲し、その子孫を持って権勢を支配しようという勢力が貴族争いで多い遠因の一つに、こうした闘争の脆弱性が控えている可能性も指摘できるだろう。
 また、こうした雌雄異なる遺伝子分布と比較的近い例は今までに紹介してきた通り、ブラジルやインドなど、スペインやポルトガル、アーリア人種など雄遺伝子分布が明らかに雌遺伝子の特徴と異なったケースがある。闘争で劣勢となった先住民の雌個体と征服側の雄個体の混血が現代のブラジルやインドでの民族的特長と酷似している様子が、このYap分布と渡来ミトコンドリアの比率から明らかになるのだ。これらの事実から、民族的流入が韓国人系どもによって行われたにせよ、現実の支配者層は縄文系であり、それらの混血個体が弥生系として新たに出現したと考えることができる。また、Yapの引継ぎに対しても、当時の日本においてYap個体もいればそれ以外の個体も存在しており、雄系統の遺伝子が系統樹の中で途切れることは珍しくもないし、むしろ自然である。本土では、もともと雌は渡来系だからだ。だからこそ、日本本土人の雌遺伝子のほとんどが中国人系、韓国人系であるのに、雄型のYapがこれだけ色濃く残る為には、結局のところ縄文、弥生時代の支配者層が縄文系でない限り不可能であるのだ。
 確かに日本人の雄個体においてYapばかりでなく、むしろ中国人と全く同じY遺伝子の保持者がいたとしても、その系統を遡ればかなりの頻度でYapが出現し、数値の裏に隠された系統分布の跡を辿ることができるのである。そうなると、社会的地位の高かった系統においてほとんどがYapを保持しており、それらの出現頻度のバラつきは系統の断裂率から明らかになる問題だと言えるだろう。ただ、背が低い特徴からどことなく類推できそうではあるが。
 韓国人系が日本人の起源はどうのといちいち文句をつけてくる理由は、もちろん文明的なマイノリティから発生するコンプレックスであり、それらは先祖が同様の韓国人系の内、最も血筋が濃い福岡部落民(方言がハングル)の特徴を見れば十分過ぎるくらいに理解できるだろう。しかしながら、それら渡来系の韓国人が真に縄文系を南北に打ち破って韓国王朝を日本本土に建てたと証明するには、全くの力不足、何よりデータ不足であると言える。現実的には雄のo型遺伝子が80%を占める中国、75%を占める韓国人系、そして50%占める日本において、雄の頻度がo型種をこれだけ出し抜いている例というのは非常に希少ではあり、尚且つ戦闘才能によほど優れている証拠だとも言えるだろう。現実的にイワイとかいう博多部落が大和に併合された事実や、見下していたはずの島津(熊襲)に領土をほとんど制圧されたこと、遺伝的母国の韓国にいたっては併合までされるなど、その後の国家の未来の下地が既にこの雌の獲得闘争によって造られていたというのは、人類学的に極めて興味深い事例だと言えるだろう。

投稿者 日本人の起源 : 2009年12月13日 16:52

イギリスの文化的起源がフランスにあるとか、ドイツにあるとか言うのはあまり意味のある論争とは思えない。
近ければ影響を受けるのは当然だし、ギリシャがフェニキアから影響を受けるのは当たり前と言えるだろう。
起源を言い出したら欧州は中東に頭が上がらず、中東ではイラクが一番上で、東アジアでは中国が一番偉い事になるのだろうが、過去に影響を与えたからそれが一体何なのだ?
現在のあり様が大事なのではないか。起源が一番ありゃ偉いのか、そんなものでもなかろう。今の状態が悪ければエチオピア王朝の長さが何になる。
地理的な近さの割には日本料理は中華・朝鮮の料理の影響は受けていないが、過去に影響を受けたからどうなのだ?受けなかったからどうなのだ?どうでも良いのではないか。
日本は中国、朝鮮から多くの影響を受けたが、それを咀嚼して世界的に独創的なものを作り、中国、朝鮮とは全く異なる社会を作った。それで良いではないか。殊更どっちが上ではなくて、日本は世界ナンバーワンのものを作ったのは、他国との優劣比較ではなく絶対的な価値を持つと考える。
歴史の長さではどの道イラクにもエジプトにもイランにも勝てないと思っている。

投稿者 パルタ : 2011年1月25日 21:31

コメントしてください

 
Secured By miniOrange