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2006年11月05日

環壕集落ってなに?

こんにちは、yuyuといいます。
最近、ブログ「新しい日本の歴史」を読んで勉強しているんですが、その中で「環壕集落」がでてきたので、少し調べてみました。
>大和286、河内・和泉175、近江155 この三ヶ所は、最大の環濠集落を有する所です。順番に、唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡です。下之郷遺跡にいたっては、3条の内濠(内郭)と6条の外濠(外郭)の合計9条の構造になっていて、いかに、外部からの攻撃を恐れたかが判ります。
河内・和泉には、池上・曽根遺跡があります。環濠というものの、深さは浅く防御用とは考えにくいですが,河内平野にある巨大古墳は、中国人との関連でみる必要があると思われます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page571.html
(「新しい日本の歴史」No16式内社が教えてくれること その3より)
>環濠集落(かんごうしゅうらく)とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
(ウィキペディア「環濠集落」より)
なるほど読んで字の如く、周囲に堀をめぐらせた集落のことなんですね。
  iseki.jpg    
  (大塚遺跡) 
  hukugen.jpg
  (大塚遺跡の復元図)
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さらに、
>No16 は ご理解頂けなかったのではないかと思います。突然、式内社の話題に、環壕集落と高地性集落が飛び込みました。この二つのことを少し書いてみます。
 環濠集落は、集落の周りに濠を掘って、外敵の襲撃に備えるものです

http://homepage1.nifty.com/o-mino/page570.html
(「新しい日本の歴史」No17環壕集落と高地性集落より)
とかかれているように、どうやら外敵に対する備えの目的もあったようです。
環濠集落は、稲作文化と同時に大陸から伝来、弥生初期に作られ初め、時代とともに北部九州から瀬戸内海沿岸地域、大阪湾沿岸へと東進波及していき、弥生中期には東日本の中部・関東南部にまで拡大していくと同時に、その規模も大きくなっていったようです。
(同上ウィキペディア参考)
上記「新しい日本の歴史」で上げられている唐古・鍵遺跡、池上・曽根遺跡、下之郷遺跡や吉野ヶ里遺跡は、いずれも弥生中期以降のもので、土器類や、石庖丁、木製農耕具、籾殻、炭化米等の生活用品等のほか、下之郷遺跡では、打製・磨製の石鏃、石剣・環状石斧、戈や柄、弓や楯、銅剣等の武器類も、環濠や集落内へ外敵が侵入できないように設けられた棚の出入口周辺から見つかったこともHP上紹介されたおり、闘いがあったことも伺える。
  shimonogoubuki5.jpg
http://www.hi-ho.ne.jp/mizuno/isekivisit/shimonogou2.html
そして、弥生時代の戦いと環濠集落との関係には、社会の進展に対応して4つの段階あるようだ。
>弥生時代の戦いには、社会の進展とともに4つの段階がある。第1段階農業開始期(紀元前5~3世紀)、第2段階の「国」成立期(紀元前2~1世紀)、第3段階「国」相互期(紀元前1~紀元3世紀)の3段階へ続く。3段階目の後半は「国・国」が王を共立して、連合を結成し、他の連合と勢カを争う第4段階目のステージが「魏志倭人伝」からうかがえる。
> また、各々の段階で、武器の質も異なる。第1段階は石製品が主流、第2段階は石製品と金属製品(青銅器)、第3段階は石製品と金属製品(青銅と鉄製品)、第4段階は鉄製品である。
> 第1段階は、稲作のため土地の継続的利用といった渡来集団の権益と、従来の自然資源を守ろうとした在来集団の益とをめぐる戦いで、環濠集落は、そのための戦闘施設であった。
> 第2段階は「国」の成立を賭けた戦いで、集団の政冶的結合による「国」と領域が確立した。剣が武器の主流となり、所有者の軍事的能力と政治力を誇示した。相次ぐ戦いの指導者が次第に社会の主導権を握り首長(王)となった。環壕集落は、このための政治拠点として拡大・整備された。
> 第3段階は「国」の領土防衛、集団的防衛・連合のための戦いである。武器形祭器を用いた戦神・軍事的祭儀が社会結合の重要な行為となった。そして、祭殿・首長の屋形を中心に統治層の屋敷、各種の工房・群倉などを備えた、「国」の戦略拠点つまり吉野ケ里のような首都としての巨大環壕集落が姿を現す。
> 第4段階は「国」(部族)連合化への戦いであり、同時により広い領域の覇権の成立をかけた戦いであった。巨大環壕集落は、市をはじめ「国」の機構を担う施設・設備を拡充し頂点に達するが、広域的な政治権力機構が成立する中で解体し、新たな地域王権(豪族連合政権?地域国家)の政治秩序のもと再編される。
(佐賀新聞、弥生の戦いと環濠集落(高島忠平氏)より引用)
 http://72.14.253.104/search?q=cache:IATv5z4KkS4J:www.saga-s.co.jp/vol3_3.html+%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD&hl=ja&ct=clnk&cd=24&lr=lang_ja&inlang=ja
上記から、渡来集団による入植地における戦闘防衛施設としての「環濠」集落が、幾多の戦乱と地域拡大を経て地域国家として統合されていく様子が伺える。
しかし、
>古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1
(ウィキペディア「吉野ヶ里遺跡、古墳時代」より)
とあるように、古墳時代に入り戦乱が治まると、「環濠」の戦闘防衛施設としての役目も幕を閉じていったのだった。

投稿者 yuyu : 2006年11月05日 List  

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コメント

なるほど勉強になります。
私も呉からの渡来人が隼人らと混血しながら
勢力を拡大し、朝鮮半島から日本海側に渡来した人々を
駆逐しながら拡大したのだと思います。
最初は大陸から鉄を輸入できる地勢的優位性から
九州が栄え、独自製鉄施設を構築するに至り、
その後は鉄産地の争奪戦になっていったのだと
考えています。

投稿者 ねこ太郎 : 2006年11月7日 22:50

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