2006年11月15日
2006年11月15日
ユダヤ人は弥生時代に日本に到達している!
こんばんわ!tanoです。 🙂
この話はかなり有名な話で聞いたことのある人も多いかと思いますが、私は最近知るようになりました。最近勉強させていただいているブログ「新しい日本の歴史」でもかなり力を入れてこの事が書かれています。
著者の説によるとユダヤ系民族は紀元前に朝鮮半島から日本に渡り、主に岡山県を活動拠点としていたようです。
神の付く地名が岡山県にたくさんあり、ユダヤ人は主にその地を渡って絹を運んでいたのではないかと考えられています。また有史では初代天皇とされている9代神武天皇はユダヤ人という説もあり、神武天皇の吉野が里征服、国家統一にユダヤ系渡来人が大きく寄与したとの事です。
以下ブログからの転載です。
岡山県小田郡笠岡町に神ノ島があり、その南隣が、神武天皇が八年駐留したと言われる高島です。この地域の式内社の分布は、美作11 備前26 備中16 備後 17 安芸3 というように、全部あわせても、73社です。他地域に比べて圧倒的に少なく、これだけしか式内社を獲得できなかったと言うことでは、漢人が入る余地がなかったことなり、天皇勢力の強かったことは確かです。
これらのことから、ユダヤ人は、早い頃から、天皇の側についていたようですし、神武天皇の東征のおりには、いろいろの面で援助したことが推察できます。また、神武天皇が、安芸に七年、吉備に八年駐留した理由も説明がつきます。
それでもユダヤ人が日本に来た、さらに天皇家の血に流れている、というのはまだ根拠が不足しているのでは・・・・
と疑う方は以下を読んでみてください。 8)
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投稿者 staff : 2006年11月15日 Tweet
2006年11月15日
弥生期以降の氏族系統(2)
弥生期は、様々な異民族が日本に流れ込んできた激動の時期だったようですね。
引き続き、その様子を見ていきたいと思います。
【古代史と古代・中世氏族研究の世界へようこそ】より引用
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/youkoso.htm
その王家の支族は二世紀前半頃に筑前海岸部へ遷住(いわゆる「天孫降臨」で、「日向」とは筑前国怡土郡から那珂郡にかけての一帯とその近隣地域のこと)、更にその王族庶子が遙か東方の大和へ移動して(いわゆる「神武東遷」。後記)、二世紀後葉に原初大和朝廷を形成した。
この王家一族の後裔諸氏の多くは、皇別(皇親)や神別の天孫に属したが、初期大和朝廷の王統(皇統)自体はこの部族内で交替があったとみられる。天皇家のほかでは、物部連、出雲臣、額田部連、服部連、鳥取連、玉祖連などを代表とする。
この種族の源流は、中国古代の周・殷・羌族などの東夷系(北狄ともかなりの混血があったか、習俗で似通ったものがある)に通じており、箕子朝鮮の王族ないし扶余王族の流れとしてよさそうである。地域的には、朝鮮半島南部の伽耶(とくに安羅)→忠清南道北部→中国の遼西→山西省南部、さらにはその遠い源としては西域まで遡る可能性がある。また、西域から四川省に進出し、古代三星堆文明を築いた種族も同族とみられる。
この一派として別途、遅れて日本列島に渡来したのが天日矛の一族であり、子孫が一旦朝鮮半島に戻って暫時留まった後、その子孫(この引率者も同名の「天日矛」として伝える)が再来日して但馬の出石地方に定住した。出石定住は三世紀前半頃とみられる。
以上の三ないし四の種族・部族が主となって融合して、現代の日本人の多くにつながってきたものとみられるが、当然ながら、日本列島の中でも地域により混血の対象・程度に濃淡の差がかなりある。
なお、古代の蝦夷・熊襲・隼人などは、弥生文化を拒絶して辺地に居住した部族のようであり、古来からの山祇系の色彩が強い。
(4) その後も絶え間なく、大陸や朝鮮半島から新しい文化や技術・信仰などをもって人々が渡来してきた。なかでも、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての応神朝頃の渡来の波(このときは弓月君を中心とする秦部族や、阿智使主を中心とする東漢部族が二大要素)、五世紀後葉の雄略朝頃の渡来の波(今来の漢人)が大きかった。
七世紀後半の百済・高句麗の滅亡によりわが国に流入してきた人々も、また大量であった。奈良時代にも、大陸との交流を通じて人々がやってきたが、九世紀になると遣唐使も次第に行われなくなり、大陸からの渡来が途断した。このころから一千年超の期間、現代日本人にむけての形成・融合の過程が着実に進行することになる。
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投稿者 naoto : 2006年11月15日 Tweet