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2007年04月26日

弥生~古墳時代 一般人の墓事情

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「方形周溝墓」
画像は発掘情報いばらき さんよりお借りしました。
こんばんは bunchanです。今日もお墓の話題です。
646年。「薄葬令」っていう御触れがだされています。墓や葬るにあたって、簡素化しなさいってことのようです。・・・てことはそれまでは華美だったってことですよね。
時代は大化の改新の翌年。その前は古墳時代でした。中国・魏文帝の節喪令の影響が見られるそうです。
『史記』、孝文帝紀には次のように書かれています。

『今日では、世の中の人々は生を喜び死を憎み、過剰な葬儀を営まんが為に仕事も出来ず、しかも喪に服する期間が長い為に皆痩せ細って今にも死にそうである。このような現状を自分はとても受け入れる事が出来ない。しかも余は不徳で人民の生活を助ける事も出来なかった。今、自分が死んだ後、三年にも及ぶ長い期間このようなことをさせる訳にはいかない。天下の君主になって二十余年になるが、その間天地の祖霊と皆々のお陰で戦争さえなかった。さぁ、天下の官吏民衆に告げよ。この令が届いたなら、会葬すること三日で喪服を脱ぎ、娘は嫁にも出してやれ。神と先祖を祀り、酒を飲み、肉を食する事も許し、会葬に臨む者は裸足でなくてもよい。喪服の帯は三寸を超えてはならない。車・兵器は布で覆わず、宮殿の中で泣くのは朝夕二回、各々十五回声を出せばよい。棺を墓に納めたなら、大功の喪服の者は十五日、小功の者は十四日、麻の喪服の者は七日間で喪服を脱げ。この令にないことはこれに準じて行なえばよい。天下に布告して私の気持ちを知らせよ。山河の自然はそのままにし、後宮の女官は一人残らず家に帰してやるがいい。』

薄葬令では、墓の大きさ・造営期間・そのための人員等が細かく規定され、また殉死の禁止も定められています。

例えば、皇族以上に対しては
   墓の内は長さ約2.7メートル、幅1.5メートル。
   外域は縦横とも15メートル、高さ8.5メートル。
   工夫1000名、工事期間は7日。
   葬礼の垂れ帛は白布。
一般庶民は
   死者は一日も留めることなく土中に埋葬すること。
   垂れ帛は粗い布。
   また、葬り場所は決められた場所のみとし、方々にみだりに埋葬してはならない。   
   宝物を納めたり、哀悼の為に髪を切るなどしてはいけない。
等の規定があった。

以上参考、「お墓の歴史
皇族以外の一般庶民にもこんなおふれがだされるとは・・・当時の墓事情ってどうだったのでしょうか。
続きにいくまえにぽちっと・・・おねがいします
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方形周溝墓は弥生~古墳時代にかけてのポピュラーな墓です。
弥生時代前期、近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築くものです。近畿地方からはじまり、東北地方南部から九州まで各地に広まりました。
畿内における弥生時代の方形周溝墓は原則的に1基に集団で埋葬する型で、それ以外の地方ではほとんどが1基に単独埋葬する型で畿内と好対照。
とにかくいろんなところにたくさんある墓!というイメージです。古墳は地方の権力者レベルの墓といったかんじですが、方形周溝墓に埋葬される人々は最下層ではないにしても、古墳をつくるほどの高い地位とまではいってなさそう。
朝日遺跡 (濃尾平野のほぼ中央、愛知県西春日井郡清洲町、新川町、春日町、名古屋市西区 縄文貝塚~弥生環濠集落)朝日遺跡の姿
方形周溝墓340墓!!
下加茂遺跡 (兵庫県 洲本市 弥生時代)下加茂遺跡の発掘調査成果について(兵庫県) 方形周溝墓4墓
大和郡山市八条北遺跡(大和郡山市八条町及び天理市南六條町 弥生時代)大和郡山市八条北遺跡(B地区)遺跡発掘調査 現地説明会資料(2004年3月27日)
方形周溝墓46(A地区も合わせると50)墓! 同遺跡の平面図と写真です↓( 同サイトからお借りしてます)
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・・・墓だらけだと思いませんか?
「方形周溝墓」という墓に亡骸を埋葬した人たちの階層がどの程度なのかは私の不勉強もあって分からないのですが、古墳時代にもこのタイプの墓があったということは古墳を作るほどの身分序列の高い人のものではなく、より一般人に近い階層ではないかと思うのです。
で、当時の人々の墓にかける想いというか気合というか、そういうのがすごーく高かったのでは。。。
だからこそ「薄葬令」でもって豪族が天皇家を上回る豪華な墓(古墳)をつくらないように牽制するとともに、一般人に対しても墓に対する熱い想いからくるエネルギーを別のところに(国家統合のための徴税とか?)向けさせようという思惑があったってことなのかなー?と推理するのですがみなさんどう思われますか?

投稿者 bunchan : 2007年04月26日 List  

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コメント

tokumaruさん!初投稿ありがとうございます。
連休中に本当にアフリカの洞窟に行っておられたのですね!
なんと最初の投稿をこのブログへしていただいて感激です。
「100聞は1見にしかず」
ぜひ、目で見たこと、耳で聞いた事、肌で感じた事をこのブログへ投稿して下さい。
写真については私の方で見れるようにUPしておきました。
また投稿の仕方教えますね!(管理人 tano)

投稿者 tano : 2007年5月8日 02:38

はじめまして!
>人類ハダカ化おしくら饅頭仮説
面白いですね。
サルの時代にあった体毛のほうが、一見温かそうな気がしますが、ジメジメした洞窟では逆に不衛生にもなりそう・・・。
だから思い切って毛は落とし、皮膚感覚を発達させて、スキンシップで温まる方法を見出したのかも?!
あぁ、でも実際の洞窟ってどんななんでしょう?
ぜひ生でご覧になった様子を教えてください!!

投稿者 みつこ : 2007年5月8日 23:20

tanoさん、よろしくおねがいします
みつこさん、はじめまして、これからよろしくお願いします
洞窟の中は、びっくりするくらい、きれいなんです
緑や茶色い壁がきれいなのと、
まるで美術館の彫刻コーナーのように、石筍がたくさんならんでいて、
さらに、中から出口をみると、これがきれい
上の写真の中央に円形に石が並べられているところがありますが、ここが炉だったんじゃないかなと思います
きっとみんなここに集まって、そとの光をみていたんじゃないかな
暗いから、音声符号でのコミュニケーションが必要になって発達したから、
現生人類の裸化も、言語も、ともに洞窟の中で始まったのではないかと思うのです
現生人類が10万年前(±3dB)に共通のひとりの祖先をもつという、レベッカ・カンらのミトコンドリアDNAの解析結果と、
現在世界で6000ある言語はすべて、10万年前の共通の言語から派生したのだという、キャヴァリ=スフォルツァの主成分分析結果とが、
時期をともにするのも、どちらも洞窟で生まれたからではないかと思うのです
そして、この洞窟には、人類が人類を食べていた痕跡があるそうです、
カニバリズムですね
この洞窟の中で、氷河期を生き延びた現生人類が、アフリカ大陸を北上して、ほかに14種類いたといわれる人類(みんな毛皮をもっていた)を全部、殺して食べつくしたのだと思います。

投稿者 得丸公明 : 2007年5月11日 00:33

人類進化の通過儀礼としての裸化環境
 今から500-600万年前の我々の祖先はチンパンジーと同種であったらしい。
 そのころは毛皮を身に着けていた祖先が、素肌むき出しのヒト、現生人類に進化したとすれば、いつ、どこで、何のために裸になったのだろうか。それを解明すれば、人類とは何かという根源的だけど、誰も解けなかった謎が解けるのではないだろうか。
 ダーウィンの性淘汰説や、エレン・モーガンの水中進化説は、すでに論破されている。裸化という不自然な進化は、目的論からは解明できない。
 発想を変えて、環境論で、つまりどこで進化したかという場所をまず探してみることにした。
 毛皮をもたない新たな種が誕生するためには、裸で過ごしても平気な環境の中で何世代か、何十世代か、最低でも数百年は過ごす必要があるだろう。そうでなければ、毛皮がなくなることはない。裸の種は生まれない。
 裸で過ごしても平気な環境、裸こそが環境適応である環境とは、雨や風や夜露に当たらない、外的に襲われにくい環境である。地球上でそのような環境としては、洞窟が考えられる。
 対象として探す時期は、ミトコンドリアDNAや人類言語の統計解析が人類の始原とする今から10万年前プラスマイナス3dB(5 – 20万年前)、中期石器時代の居住が確認されている場所。
 東アフリカに洞窟は少ない。洞窟が多いのは、南アフリカだ。一般にいわれているように東アフリカではなく、南アフリカの洞窟の中で、毛皮を失って、言葉を話し始めた現代人が生まれたのではないだろうか。
 このように考えて、私は南アフリカ共和国の東ケープ州にあるクラシーズ河口洞窟を見学してきた。クラシーズ河口洞窟は、南アフリカの中期石器時代遺跡の中でも特に居住期間が古くて長い、13万年前から6万年前の居住跡がある洞窟である。
 現在は遺跡保護のため一般の立ち入りが許されていないこの洞窟に入るために、かつてここで発掘をしておられた学者に連絡し立ち入り許可をもらい、現地の道案内を受けた。
 洞窟は、海面から約20mほど高くなった崖の途中にある。かつて海面が今より20m高く、波も荒々しかった時代に、テーブルマウンテン砂岩層が、海水浸食によってできた洞窟である。10万年前と今とで洞窟の形状は変わっていないと思われる。
 西に向いて開いている入り口は、幅7-8m高さ2-3mであるが、中は幅広くなっていて、30mほど東に延びている。奥からは南北それぞれの方向に真っ暗なトンネルが延々と続いている。そこここにまるで美術館の彫刻展示室のように、石筍がたくさん並んでいた。
 洞窟の中は暖かく、24度、Tシャツ一枚でも平気なほどだった。
 東の壁の手前には、炉の跡らしいものもある。火を囲んでいるうちに、毛皮がなくなったのだろうか。氷河期の寒さを乗り切るために、肌と肌を合わせているうちに毛皮がなくなったのだろうか。狭い洞窟内を快適に過ごすために、体をごしごし洗っていて裸化したのだろうか。
 洞窟の中ではそんなことを考えていた。

投稿者 得丸公明 : 2007年5月11日 00:35

洞窟の前はインド洋
アフリカ大陸のどんづまりで、進化は起きたのかもしれません
進化なんて、そういった極限状況でしか起きないのではないかなと思います
逃げ場がどこにもない、そこで、なるべく無駄なエネルギーや栄養消費のないようにと、裸になった。

投稿者 得丸公明 : 2007年5月12日 09:55

人類の毛が抜けたのはなんで?
いくつか論点がありそうなのでまた別の投稿で追求していきましょう。
できましたら得丸さんから上記の論点の出典元等を掲載していただけるとありがたいです。

投稿者 tano : 2007年5月13日 00:57

tanoさん、
上の論考の参考文献は、島泰三著「はだかの起原」、木楽舎です。
ただ洞窟で進化したという仮説は、オリジナルです。

投稿者 得丸公明 : 2007年5月13日 19:48

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