2007年4月7日

2007年04月07日

飢饉に際して、座して死を待つか、家族を食べるか

😀 くまなです。
これまで遊牧民が、飢饉に際してどう行動するかを紹介しました。
では、日本人は飢饉に際してどう行動したのでしょうか?
こんな美談が残っています。
ときは享保17年(1732年)、ウンカが中国・四国地方と、九州一帯に大量発生し、大飢饉を引き起こした、享保の飢饉。『徳川実紀』によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」(日本災害史)と伝えています。
美談の主人公は 作兵衛
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この飢饉による驚嘆な食糧欠乏のなかで、愛媛の伊予国松山藩筒井村の百姓・作兵衛は、麦の種を一斗貯えていた。しかし彼は、毎日の食物が尽きてからも、この麦の種を食べようとはしなかった。そのため、まず作兵衛の父と長男とが餓死し、作兵衛自身もまさに餓死しようとしていた。
人々はみな、作兵衛がこの麦種を食べて、‘餓死’の危機を免れるよう、口をそえて作兵衛にすすめた。しかし作兵衛は、このみなのすすめを聞きいれないで言うには、
「穀物の種子をまいて収穫を得て、税として納めるのは農民の務めです。収穫した作物を国に納めるから国の人々は生活ができるのです。だから穀物の種子は、自分の命以上に貴重なものなのです。
農民は国の基本で、種子は農業の基本です。今もしも、私がこの種麦(たねむぎ)を食べて数日の命をつないだとしても、来年の種麦をどこから得ることができるでしょう。
たとえ私が飢えで死んだとしても、この種麦によって何万という命を救うことになれば、もとより私の願うところです」といって、麦袋を枕としたまま餓死した。
だがこのため、一郡の人々は、後にこの麦の‘種’を畑に蒔くことができて、生命を完うすることができた。

(中島陽一郎「飢餓日本史」、伝えたいふるさとの100話「穀物の種は命より大切」より)
いかにも日本人らしいお話しですね。
ただ飢饉は、そんな美談だけでは語れません。
飢えて食べ物がなくなれば、場合によっては、家族を食べます。

(さらに…)

投稿者 kumana : 2007年04月07日  



 
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