- 縄文と古代文明を探求しよう! - http://web.joumon.jp.net/blog -

飢饉に際して、座して死を待つか、家族を食べるか

😀 くまなです。
これまで遊牧民が、飢饉に際してどう行動するかを紹介しました。
では、日本人は飢饉に際してどう行動したのでしょうか?
こんな美談が残っています。
ときは享保17年(1732年)、ウンカ [1]が中国・四国地方と、九州一帯に大量発生し、大飢饉を引き起こした、享保の飢饉 [2]。『徳川実紀』によると「すべて山陽、西国、四国等にて餓死するもの96万9千人」(日本災害史 [3])と伝えています。
美談の主人公は 作兵衛
083-2.jpg

この飢饉による驚嘆な食糧欠乏のなかで、愛媛の伊予国松山藩筒井村の百姓・作兵衛は、麦の種を一斗貯えていた。しかし彼は、毎日の食物が尽きてからも、この麦の種を食べようとはしなかった。そのため、まず作兵衛の父と長男とが餓死し、作兵衛自身もまさに餓死しようとしていた。
人々はみな、作兵衛がこの麦種を食べて、‘餓死’の危機を免れるよう、口をそえて作兵衛にすすめた。しかし作兵衛は、このみなのすすめを聞きいれないで言うには、
「穀物の種子をまいて収穫を得て、税として納めるのは農民の務めです。収穫した作物を国に納めるから国の人々は生活ができるのです。だから穀物の種子は、自分の命以上に貴重なものなのです。
農民は国の基本で、種子は農業の基本です。今もしも、私がこの種麦(たねむぎ)を食べて数日の命をつないだとしても、来年の種麦をどこから得ることができるでしょう。
たとえ私が飢えで死んだとしても、この種麦によって何万という命を救うことになれば、もとより私の願うところです」といって、麦袋を枕としたまま餓死した。
だがこのため、一郡の人々は、後にこの麦の‘種’を畑に蒔くことができて、生命を完うすることができた。

(中島陽一郎「飢餓日本史」、伝えたいふるさとの100話「穀物の種は命より大切」 [4]より)
いかにも日本人らしいお話しですね。
ただ飢饉は、そんな美談だけでは語れません。
飢えて食べ物がなくなれば、場合によっては、家族を食べます。


ときは天明年間(1781~1788年)。冷害や多雨、火山噴火などが重なり、東北地方を中心にして天明の飢饉 [5]が起こります。津軽藩の「天明年度凶歳日記」によると天明3年10月~天明4年8月だけで10万2千人が餓死したと伝えています。
八戸での天明飢饉の様子
r_kegaji_il_1.jpg
八戸市博物館 [6]

天明飢饉の時の旅行者である橘南谿の『東遊記・補遺』には、東北地方の悲惨な状況をリアルな筆で書いたうえ、宿で実際に聞いた、次のような鬼気迫る話を紹介している-
飢えて枯れ木のように死んだ人の肉は味がよくないので、弱った者を生きているうちに殺して食う例も多かった。
宿に近いある家族は、だんだん餓死して父親と息子の二人きりになった。息子もあと二、三日の命と思われるほど弱ったが、親としては自分の手で殺すに忍びないので、隣家の男に「お礼に肉を半分やるから」といって殺人を依頼した。
隣家の男が息子をナタでなぐり殺すと、見ていた親は「息子の仇(あだ)だ」とばかり彼をマサカリで殺した。かくて二人分の肉を得た親は、料理して塩づけとし、一ヶ月ほど生きのびたが、やがて当人も餓死してしまった…。

(中島陽一郎「飢餓日本史」より)
上記は、あくまで特殊な例だと思います。(安心してください)
江戸時代の農民は、耐え忍び、餓死していきます。自殺や心中もあったようです。
遊牧民は新天地をめざし、他集団と死にもの狂いの戦いへ。
日本人は耐え忍び、衰え、死んでいく仲間や家族を食べて凌ぐ。
次回は、一揆とその背景について紹介します。それではお楽しみに!
読みたいと思った方は、 ポチッと応援よろしくお願いします。
Blog Ranking [7]にほんブログ村 歴史ブログへ [8]

[9] [10] [11]