2007年4月19日

2007年04月19日

法典石碑を建てたハンムラビ王の状況に同化してみる。

メソポタミヤ社会を知る上で欠かせないのが「ハンムラビ法典」です。 (今回も南風博物館さんから引用させていただきます。) ハンムラビ法典は、野蛮な復讐の法として有名ですが、実際はそうではなく当時の社会を秩序化するために考え出された新しい政策だったようです。
ちょっと、ハンムラビ王の状況に同化してみてみましょう!!
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注:写真が法典の原文とされている石碑です。高さは2.2m(実際見た人は「思ったより大きかった!」という人が多い)で頂部にレリーフ、下部は楔形文字がびっしりと彫られています。レリーフは当然、ハムラビ王(左側の立っている人)で、神様(右側の座っている人)から杖と輪を授かっています。
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投稿者 nandeya : 2007年04月19日  

2007年04月19日

縄文人にとって病気は致命傷だった!!

今晩はさーねです 😛
最近、ちょっと前までインフルエンザ 8) が流行ってましたね
このような伝染病(これが社会的問題になる疫病と呼ばれます)実は縄文にもあったと言われています。しかも、後期・晩期の人口激減は、寒冷化と共に疫病説も唱えられています。
>4500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。社会実情データ図録より
縄文人の人口激減は諸説あるようですが、今日は、縄文人にとって病気はどのくらいの外圧だったか 調べてみました 😥
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投稿者 sawatan : 2007年04月19日  



 
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