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法典石碑を建てたハンムラビ王の状況に同化してみる。

メソポタミヤ社会を知る上で欠かせないのが「ハンムラビ法典」です。 (今回も南風博物館さんから引用させていただきます。) ハンムラビ法典は、野蛮な復讐の法として有名ですが、実際はそうではなく当時の社会を秩序化するために考え出された新しい政策だったようです。
ちょっと、ハンムラビ王の状況に同化してみてみましょう!!
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注:写真が法典の原文とされている石碑です。高さは2.2m(実際見た人は「思ったより大きかった!」という人が多い)で頂部にレリーフ、下部は楔形文字がびっしりと彫られています。レリーフは当然、ハムラビ王(左側の立っている人)で、神様(右側の座っている人)から杖と輪を授かっています。
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>ハンムラビは25歳のときに、父シンムバリトの後継者としてバビロンの王になった。
 しかし当時のバビロンは、北にアッシリア(国王シャムシ・アダド1世)、近在にマリ王国、当方にエシュヌンナ王国、南方にはラルサ(国王リム・シン)をかかえており、生まれたばかりの弱小な都市国家でしかなかった。そのため、彼の最初の事業は、彼の前任者たち同様、バビロンの政治的・宗教的基盤の強化であった。彼の最初の軍事行動は、即位から6年後の南方遠征である。
ここから25年間、ハンムラビ王は周辺諸国との軍事的圧迫に対して知恵を絞って戦線を勝ち抜き、メソポタミヤの広大な領土を平定するにいたる。
 >アッカド王サルゴン以来の広大な領土を手中にするにいたったハンムラビは、宗教的・法的にこれを維持する必要に迫られた。彼はどの都市の守神に対しても敬意を払っており、バビロンの市神マルドゥークを押しつけたりはしなかった。またしっかりとした法整備を行うことで民心を獲得し、秩序を回復することに砕身したのである。
>これらはバビロンの古い慣習法を成文化したものであり、そのうちいくつかの条項には、ラガシュのウルカギナ、イシンのリピト・イシュタルらによる初期立法からの影響がみられる。 ハンムラビ法典は、法の執行、財産所有、貿易および商業、技能職の規定、農業と報酬、婚姻と家族、奴隷、暴行などに関する諸規則からなっている。一般に「目には目を、歯には歯を」で知られる復讐法は、ほんのわずかな数行だけである。
(南風博物館さん)http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/babylon_dic.html#hammurabi
ここからハンムラビ王の意図を汲み取ると、
<状況は>
1.軍事力によって国家間の力関係は安定したが、民間には争いごとが絶えない。
2.バビロンの守護神信仰(マルドゥーク信仰)だけでは諸部族を統合できない。

<どうする?>
1.⇒慣例法や不文律を成文化する。
2.⇒さらに物質化(石碑化)する。
3.⇒法典は、正義の神シャマシュ神と王のレリーフをいただいて権威付けを行なう。

ハンムラビ王は、こうして、新しい統合様式である「法」を生み出しました。
そしてこの「法」という統合様式は現代にまで繋がっている事が驚きです。
by田村

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