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弥生~古墳時代 一般人の墓事情

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「方形周溝墓」
画像は発掘情報いばらき  [1]さんよりお借りしました。
こんばんは bunchanです。今日もお墓の話題です。
646年。「薄葬令」っていう御触れがだされています。墓や葬るにあたって、簡素化しなさいってことのようです。・・・てことはそれまでは華美だったってことですよね。
時代は大化の改新の翌年。その前は古墳時代でした。中国・魏文帝の節喪令の影響が見られるそうです。
『史記』、孝文帝紀には次のように書かれています。

『今日では、世の中の人々は生を喜び死を憎み、過剰な葬儀を営まんが為に仕事も出来ず、しかも喪に服する期間が長い為に皆痩せ細って今にも死にそうである。このような現状を自分はとても受け入れる事が出来ない。しかも余は不徳で人民の生活を助ける事も出来なかった。今、自分が死んだ後、三年にも及ぶ長い期間このようなことをさせる訳にはいかない。天下の君主になって二十余年になるが、その間天地の祖霊と皆々のお陰で戦争さえなかった。さぁ、天下の官吏民衆に告げよ。この令が届いたなら、会葬すること三日で喪服を脱ぎ、娘は嫁にも出してやれ。神と先祖を祀り、酒を飲み、肉を食する事も許し、会葬に臨む者は裸足でなくてもよい。喪服の帯は三寸を超えてはならない。車・兵器は布で覆わず、宮殿の中で泣くのは朝夕二回、各々十五回声を出せばよい。棺を墓に納めたなら、大功の喪服の者は十五日、小功の者は十四日、麻の喪服の者は七日間で喪服を脱げ。この令にないことはこれに準じて行なえばよい。天下に布告して私の気持ちを知らせよ。山河の自然はそのままにし、後宮の女官は一人残らず家に帰してやるがいい。』

薄葬令では、墓の大きさ・造営期間・そのための人員等が細かく規定され、また殉死の禁止も定められています。

例えば、皇族以上に対しては
   墓の内は長さ約2.7メートル、幅1.5メートル。
   外域は縦横とも15メートル、高さ8.5メートル。
   工夫1000名、工事期間は7日。
   葬礼の垂れ帛は白布。
一般庶民は
   死者は一日も留めることなく土中に埋葬すること。
   垂れ帛は粗い布。
   また、葬り場所は決められた場所のみとし、方々にみだりに埋葬してはならない。   
   宝物を納めたり、哀悼の為に髪を切るなどしてはいけない。
等の規定があった。

以上参考、「お墓の歴史 [2]
皇族以外の一般庶民にもこんなおふれがだされるとは・・・当時の墓事情ってどうだったのでしょうか。
続きにいくまえにぽちっと・・・おねがいします
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方形周溝墓は弥生~古墳時代にかけてのポピュラーな墓です。
弥生時代前期、近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築くものです。近畿地方からはじまり、東北地方南部から九州まで各地に広まりました。
畿内における弥生時代の方形周溝墓は原則的に1基に集団で埋葬する型で、それ以外の地方ではほとんどが1基に単独埋葬する型で畿内と好対照。
とにかくいろんなところにたくさんある墓!というイメージです。古墳は地方の権力者レベルの墓といったかんじですが、方形周溝墓に埋葬される人々は最下層ではないにしても、古墳をつくるほどの高い地位とまではいってなさそう。
朝日遺跡 (濃尾平野のほぼ中央、愛知県西春日井郡清洲町、新川町、春日町、名古屋市西区 縄文貝塚~弥生環濠集落)朝日遺跡の姿 [5]
方形周溝墓340墓!!
下加茂遺跡 (兵庫県 洲本市 弥生時代)下加茂遺跡の発掘調査成果について(兵庫県) [6] 方形周溝墓4墓
大和郡山市八条北遺跡(大和郡山市八条町及び天理市南六條町 弥生時代)大和郡山市八条北遺跡(B地区)遺跡発掘調査 現地説明会資料(2004年3月27日)
方形周溝墓46(A地区も合わせると50)墓! 同遺跡の平面図と写真です↓( 同サイトからお借りしてます)
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・・・墓だらけだと思いませんか?
「方形周溝墓」という墓に亡骸を埋葬した人たちの階層がどの程度なのかは私の不勉強もあって分からないのですが、古墳時代にもこのタイプの墓があったということは古墳を作るほどの身分序列の高い人のものではなく、より一般人に近い階層ではないかと思うのです。
で、当時の人々の墓にかける想いというか気合というか、そういうのがすごーく高かったのでは。。。
だからこそ「薄葬令」でもって豪族が天皇家を上回る豪華な墓(古墳)をつくらないように牽制するとともに、一般人に対しても墓に対する熱い想いからくるエネルギーを別のところに(国家統合のための徴税とか?)向けさせようという思惑があったってことなのかなー?と推理するのですがみなさんどう思われますか?

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