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2010年10月07日

シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第8回 権威にこだわらず、表現方法を磨き上げた日本人

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「万葉の碑」
夜の落書きの定番「夜露死苦(よろしく)」。あの「夜露死苦」という落書きは、日本人の思いをいまに伝える万葉仮名の伝統を踏んだ絶妙な当て字である、といえば、驚くひともいるかもしれませんが、「ヨロシク」とも「よろしく」ともまったく違う意味が感じられる表記です。万葉仮名は、ひとつの音に、いろいろな漢字を当てはめることで、もとのやまとことばが持つ、さまざまなニュアンスを自在に伝えていました。
今回は、漢字という他国から入ってきた文字を、自民族の実感に沿った言葉を表す文字へと再創造していった祖先の歴史をたどります。
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「史記」と「徒然草」
●漢字の国、中国
中国には「科挙」という「官僚になるための試験」があります。漢字の国の官僚になるための試験ですから、エリートにとって漢字の習得は必須事項となります。漢字だけの中国で「文章」というものは特別で、①わかりやすい表現がなかなかできないので表現が誇大なものになってしまう、②そのためにはとんでもない量の漢字を知っておく必要がある、ということになります。中国では長らく、書物は読むのも書くのもインテリの独占物であり、結果として気楽な日記のような生活に密着した記録は残っていない状況です。「文章を書く」となると、一挙に.司馬遷の「史記」のレベルに行ってしまうのです。
●漢字とかなとカナ(=和漢混淆文)の国、日本
一方、日本には、気楽な日記の類が多く残されています(ex.「元禄御畳奉行の日記」)。これにより当時のひとたちの生活が簡単にわかるということで、中国文学の研究者は、日本をとてもうらやましがります。さらに、日記だけでなく「随筆」が多いのも特徴です。初めて随筆を書いたのは、女性の清少納言で、これは全編「ひらがな」。その後に続くのはオジサンの随筆で、その代表が、.鴨長明「方丈記」、吉田兼好「徒然草」。ここに「和漢混淆文」が登場します。
鴨長明は「漢字+カタカナ」でしたが、兼好法師以来、「漢字+ひらがな」がおじさんたちの文章の主流になります。当時の日本では、「漢文」の素養を持っている男の人が堅苦しくなく自由に書いてみようと、権威に重きを置かず、柔軟で自由な発想を持ち合わせていた、ということだと思います。
●「和漢混淆文」の歴史
ここで、日本人の文作の広がりにおいて決定的な役割を果たした「和漢混淆文」の歴史をたどってみましょう。
万葉集:万葉仮名→竹取物語:ひらがなだけのシンプルな物語→源氏物語:ひらがなだけの複雑な物語→今昔物語集:漢字+カタカナの書き下し文→方丈記:漢字+カタカナ→徒然草:漢字+ひらがな
万葉仮名の発見から、「漢字」と「ひらがな」のドッキングまでに、約500年を費やしています。漢字をくずして「ひらがな」を作る作業に時間がかかるのならまだわかりますが、既にできている「ひらがな」と「漢字」をドッキングさせるのにこれだけ要した、これは、「教養ある大人の男が平気でマンガを読む」のに要した時間であると考えることができます。
「和漢混淆文」は、「漢文」という外国語しかしらなかった日本人が、「どうすればちゃんとした日本語の文章ができるだろう」と考えて、長い間の試行錯誤を繰り返して作り上げた文体です。「自分たちは、公式文書を漢文で書く。でも自分たちは、ひらがなで書いた方がいいような日本語をしゃべる」という矛盾があったから、「漢文」はどんどんどんどん「漢字+ひらがな」の「今の日本語」に近づいてきました。漢文という「外国語」でしかない書き言葉を「日本語」に変えたのは、「話し言葉」なのです。つまり、日本人は、「おしゃべり」を取り込んで自分たちの文章を作ってきたのです。
●その後の日本語~和洋中の粋を極め続ける~
俳句であれば「5・7・5」、短歌なら「5・7・5・7・7」というように、音の数が決まっています。これはとても不自由なことですが、そうした「型」に収めていく作業をすることによって、むしろ言葉の研磨が行なわれ、表現する感性は研ぎ澄まされていきました。日本人の記憶に残りやすい言葉は、みなこのリズムに当てはまっており、「型」の効用を確立していった結果だといえます。
さらに、「幸福」「社会」「権利」「演説」「民族」「国家」「宗教」「信用」「科学」「芸術」「理性」「技術」「国際」「基準」「哲学」「革命」「思想」「心理」「意識」・・・。これらはすべて明治に生まれた翻訳語です。明治の初期に、膨大な外来語を漢字を用いて翻訳できたのは、当時の日本人に漢字の素養があったからです。つまり、明治の日本人は、漢字を自在に使えるという技術をフルに活用することで言語の精度を高め、それによって西洋文化を自分のものとし、近代化にいち早く成功したのです。
●そして、潜在思念が観念と結びついた
日本語というのは、もともとは感覚的な表現を得意とする、やまとことばから始まっています。そこに、抽象的な概念や、豊富な記述様式を持った中国語が入ってきたことにより、日本語は大きく飛躍します。そして仮名の発明により、感覚的な表現力を維持したまま、新たな概念を取り込むことで、論理的な思考ができる言葉にブラッシュアップされました。さらに、明治期に欧米のものの考え方が入ることによって、日本語は、現在のワールドワイドな、いわば和洋中の粋を集めたようなすごい言語へと仕上がっていったのです。
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「炎立」と「傾月」
万葉集に戻ります。
柿本人麻呂。
東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
この歌は古くは「東野炎立所見而」と書かれ、「アヅマノノケブリノタテルトコロミテ」と読まれていましたが、現在の詞を得たのは契沖・賀茂真淵の功績によると言われています。次回ミッション時、江戸中期における「国学」という視点から日本語を探求してみたいと思います。
参考図書:橋本治「これで古典がよくわかる」
      斉藤孝「ざっくり!日本史」
      犬養孝「万葉の旅 上」
うらら

投稿者 urara : 2010年10月07日 List  

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コメント

ところでモンゴロイドの顔が現生人類の共通的特徴からいかに大きくずれている理由はなんだろうか。

投稿者 tennsi21 : 2011年3月17日 22:58

人類史の追求、すごく楽しみですね。
震災や原発など、不安が先行している現代だからこそ、人類に進むべき道、可能性を発掘していきたいです。確かな可能性を発掘するためにも、人類がいままでどのような道を歩んできたのかの歴史事実を押えることは不可欠となります。
いろんな本やネットをみても、いまいち答えが見えにくいテーマへのチャレンジ、とても期待しています!!

投稿者 午後の紅茶 : 2011年3月19日 19:36

tennsi21さん、こんにちは。コメントありがとうございます。
モンゴロイドと一口に言っても、実は世界各地に広範に存在しており、歴史的にも長い時代を経て枝分かれした系統が幾つか有ります。これからこのシリーズではまさにその歴史をたどりながら、いつどこで、どの様な状況下を過ごして来たのかを見ることにより、モンゴロイドの性質を把握していこうと思ってます。

投稿者 saah : 2011年3月24日 16:56

午後の紅茶さん、コメントありがとうございます。
このシリーズが始まった時はまだ今回の東北地震や原発事故災害が起きる前だったのですが、災害以来、人類のこれまでの進化の方向が、何か誤った方向に行きかけてやしないかと不安になった方も多いのではと思います。と同時に、人類は自然の力の前には以下に無力であるかも身に知らされました。
しかし、人類はその様な自然の圧力に対し何度も絶滅の危機を迎えながらも適応してきたのだと思います。
このシリーズでも、そんな私たちの祖先がどのように自然と対峙して来たのかを、しっかり学んでいこうと思います。

投稿者 saah : 2011年3月24日 17:02

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