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2009年06月18日

箸墓古墳が卑弥呼の墓であることが確定的になった???

さる5月31日の各紙に奈良県桜井市にある箸墓古墳卑弥呼の墓である可能性が強まったという記事が掲載されました。
箸墓古墳(奈良県桜井市)
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卑弥呼の墓については、魏志倭人伝に記述があります。「卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」(卑弥呼、以って死す。大いに冢(ちょう)を作る。径は百余歩。)死んだ時期についての記述はありませんが、前後の記述から247~248年ごろだと言われています。(参考サイト「卑弥呼の死と比定」)
箸墓古墳はこれまで、土器の形式によって年代を絞り込む考古学的手法によって、270年前後の築造とされ、中国の史書「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の次の女王、壱与(いよ)の墓との説もありました。
( 「箸墓古墳は卑弥呼の墓?」産経新聞5/29)
ところが今回、古墳の周囲から出土した土器に付着した炭化物を分析したら、卑弥呼が墓に埋葬されたと思われる時期と一致したというのです。
今回の発表を行った国立歴史民俗博物館の春成秀爾(ひでじ)・名誉教授は「この時代、他に有力者はおらず、卑弥呼の墓であることが確定的になった。」と言っています。(「リンク」毎日新聞6/1)
墓が作られた時期と卑弥呼が死んだ時期が一致したからといって、その墓が卑弥呼の墓だというのは乱暴すぎます。墓が作られた時代に他に有力者がいないという前提はどこから来るのでしょうか。
当時の日本については魏志倭人伝(中国の史書)に辛うじて記録されているだけですが、それ以外の歴史はなかったというのでしょうか
そんなはずはありません
倭の王は、近畿だけでなく、九州にもいたし、東国にもいたはずです。
もっといえば、魏志倭人伝が描いている「」がどこなのか、今の日本と一致するのかどうかも決着がついていないのです。
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箸墓古墳の築造年=西暦240~260年代という数字はどのように導かれたのでしょうか。

歴博グループは放射性炭素年代測定により、箸墓古墳(奈良県桜井市)の築造年代を240~260年代と発表した。
 測定の対象は、箸墓やその周辺の墳墓、遺跡を中心に採取した土器に付着している炭化物など89点。得られた炭素14年代の値を、年代がわかっている国産の樹木を使った年代換算データベースで実年代に直した

歴博の放射性炭素年代測定について詳しく掘り下げたい方は 歴博発表の放射性炭素(14C)年代について

 この測定法では、出てくる実年代は幅をもつ。歴博グループはこの幅を考古学のデータで絞り込んでいく。
 今回は、弥生時代後期から古墳時代初めにつくられた土器の編年(先後関係)や出土状況を考古学データとして使った。

 この時代、土器は……庄内1式→庄内2式→庄内3式→布留0式→布留1式→布留2式……と変化する。布留0式が箸墓築造時の土器とされている。歴博は、それぞれの型式の実年代を求め、古い順に実年代上の場所を決めていった。
 問題の布留0式は、炭素14年代の測定値(1800BPなど)だけを見れば、実年代は3世紀の中ごろと、3世紀末から4世紀初めごろの両方に当たる可能性がある。
 そこで、歴博は前後の型式に注目する。まず、一つ前の庄内3式を3世紀前半までに限定。さらに、一つ後の布留1式を3世紀後半に限定した。これにより、両者にはさまれた布留0式も、240~260年代に入れるのが合理的と結論した。
 さて、気になるのは、ほとんどの型式の実年代が、入る可能性のある幅の中の古い方に入れられていることである。

 恣意(しい)的な解釈(絞り込み)ではないかと批判の出るところだ。だが、この点では歴博にも裏付けがある。特に重視するのが布留1式。布留1式は炭素14年代が1690BPと、換算データベースの特徴あるカーブ(沈み込み)に当たるため、3世紀後半に絞る大きな根拠になるという。
 研究グループの小林謙一・中央大准教授も「(今回の年代推定の)キーポイント」と話す。理論的にはこの布留1式の数値が4世紀の中盤以降に入る可能性があるが、「考古学的にありえない」として退けられた。ただ、この資料を布留1式に位置づけることには異論もある

 他にも気になる点がある。今回、庄内2式の測定ができなかった。歴博の示した図では、庄内2式の入る余地が際立って狭い。庄内2式が他の型式の平均程度に存続したとすれば、玉突き式に庄内3式も布留0式も新しくなりそうだが、「庄内2式の測定ができれば、1式と3式の間(の狭いすき間)に入るはず」とのことだった。

 このように歴博は発表に自信を示しているが、ひとつ注目のデータがある。箸墓に近く、箸墓より一時代前とされるホケノ山古墳(庄内式の最新期)の測定値だ。奈良県立橿原考古学研究所の報告書によれば、木材2点の測定値がそろって1700BP前後。歴博が重視した布留1式より2型式ほど前の古墳が同じ数値を示しているわけだ。ホケノ山が3世紀後半ならば、その後の箸墓も新しくなり、歴博発表と矛盾する

このデータと関連して興味深いのは、歴博が多用する土器付着炭化物は、同じ地点から出た他の資料に比べ、古い年代が出る傾向があることだ。歴博は「土器の外に着いたすすなら問題はない。今回は他の資料の数値とも矛盾しない」と説明するが、この現象には未解明の部分があり、この点から歴博の報告に懐疑的な研究者は多い。

 さらに、この時代の土器に詳しい寺澤薫・橿原考古学研究所部長は「日本版の較正曲線(実年代換算のためのデータベース)がまだ完成していない。数年前と今とで、まったく違う実年代が出されており、今後もどう変わるかわからない」と指摘。「将来、炭素年代に頼る時は来るだろうが、今はその段階ではない」と、今回の数字を慎重に評価している。

 ところで、仮に240~260年代という築造年代が正しいならば、箸墓=卑弥呼の墓だと確定できるのか。中国の史書『魏志倭人伝』などによれば、卑弥呼は247年ごろに死亡しており、築造年と重なる。
 しかし、卑弥呼の墓とするには問題のあるデータは考古学上も文献上も少なくない。
 発表会場にいた大塚初重・明治大名誉教授は「箸墓が240~260年代でいいという考古学者も多いと思う。しかし、その年代に入ったから卑弥呼の墓なんだとは言い過ぎ。僕は邪馬台国畿内説だけど、そんな簡単に決まるんだと一般の人から思われては困る」と話していた。
 また、発表会の司会者、日本考古学協会理事の北條芳隆・東海大教授は「会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」と、報道関係者に異例の呼びかけを行った。「箸墓=卑弥呼の墓」説が独り歩きして世間に定着しかねないのを危ぶんだのである。

(「波紋を呼ぶ歴博発表 懸念される数値の独り歩き」)

投稿者 kumana : 2009年06月18日 List  

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