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2013年02月05日

弥生時代再考(3) 古墳の謎を一挙解明

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古墳には謎がたくさんあります。“巨大”であること、数の多さ、カタチの統一、ヤマトの立地、突然造られなくなることなどです。前回の記事、渡来人が成した金属信仰~青銅に神が宿るを受けて、古墳の謎の解明にチャレンジします。
 
 
一大土木事業に駆り立てたのは戦争圧力
3世紀半ばから青銅器が消滅し、代わって巨大な古墳が造られるようになります。前方後円墳や前方後方墳という統一された様式で、7世紀までに全国に16万基あまりが造られます。
 
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巨大古墳の造営は、最大で延べ500~700万人、工期15~16年を要する一大土木事業です。しかし、この事業は生産力向上に直結しません。にもかかわらず、そのような労働力を振り向けるには、相応の理由があったはずです。全国的に様式が統一されているということは、中央政権にとっても、各クニの首長にとっても、それだけの労力を掛けるべき課題だったと考えられます。そのような連合国のトップから平民までをも貫く重要課題は、国家レベルの外圧=戦争圧力です。
 
戦争に備えるのならば、生産力を増強し、軍隊や武器の強化も考えられます。しかし、当時の弥生人を形成した渡来人は、大陸の戦乱による難民であり、弱者でした。また、日本には武器をつくる資源も乏しい状況でした。そこで、彼らはいかに戦争を回避するかを考えたのです。
  

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敵は強国高句麗
  
古墳造営着手から遡ること約200年(紀元前37年)、扶余族が朝鮮半島北部に高句麗を建国します。中国(後漢)支配に対する半ばクーデターです。
 
その後、2世紀前半に魏が成立すると、その勢力は朝鮮半島北西部まで及びます。そして、古墳時代が始まる2世紀後半には、高句麗は魏から攻撃を受けます。王は国を追われ、半島北東部(南沃且)まで敗走します。その時、人民の逃避先として選ばれたのが高句麗から近い山陰出雲でした。半島征服の足がかりとして三韓を挟み撃ちにする戦略地として狙っていたと考えられます。
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山陰の中海は天然の良港であり、かつ、出雲には鉄・銅資源もありました。軍事、交易の両面から適地でした。(先住の銅剣・銅矛民や銅鐸民は支配下に置かれます。一部は抵抗し虐殺されます。→スサノオ神話)
  
高句麗族はもともと方墳を築造する文化があり、出雲支配と同時に巨大な方墳=四隅突出型方墳を築造します。
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銅剣・銅鐸を捨て、古墳による統合へ
 
それまで、銅剣・銅鐸(守護・豊穣)で集団統合を図っていた弥生人は、高句麗の脅威を目の当たりにします。巨大な方墳は彼らの力のシンボルであり、圧倒されます。
 
弥生人は、戦争を回避するため、彼らに対抗し、巨大古墳の造営に着手します。威嚇のためには、相手を圧倒する大きさと数が必要です。かつ、連合の結束を表す“かたち”の統一も必要でした。
 
 
古墳造営という先端課題に全集団課題を収束させた
 
古墳造営は内部統合の秩序を強化する役割ももたせました。各国の力(主に生産力)の大きさに応じて、つくる古墳の大きさを決めていきました。これは各国の序列を明確にすることで内部抗争を封鎖する狙いもありました。
 
ヤマトと双璧をなす吉備は大型の古墳を志向し、5世紀には箸墓を超える古墳を造営します。ヤマトはこの勢いを越えるために、4世紀末、大型古墳が造営できる領地(生産地)が得られる河内へと進出しました。(5世紀前半、河内が360m級を造営したことで辛うじて吉備の360mを許容。)
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古墳のかたちは、それまでの墳丘墓には無い「前方後円墳」を導入します。前方後円墳の起源は吉備国にあり、そこでの最先端の統合様式と古墳造営技術が取り入れられました。
  
その形の意味は前方部にあり、元々は円墳の“参道”だった部分が徐々に強調され発達したものです。それは王位継承の儀式を行い、これを皆に知らしめる場として大きな台座状に造られるようになります。これは、王位の世襲を確立し、各クニの内紛を防止する効果を狙ったものです。
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古墳造営は平民が担いました。その労働は統率のとれた集団行動が行われることで、いざというときの軍事行動の訓練にもなっていたのです。また、一大公共事業は、余剰労働力(生産力)を活用する機会としても機能し、間接的に生産力を向上させるという狙いもありました。
(更に、当時の中国から伝わった厚葬思想があり、広く首長に歓迎されたと考えられます。)
 
  
前方後円墳連合が大和を拠点としたのはなぜか
 
それは、対高句麗防衛連合にとって、吉備尾張の2大勢力との連携が不可欠だったからです。日頃から密に人と情報が行き来し、有事にはすぐに支援が来る立地である必要があったのです。最古級の前方後円墳で出土する土器が、尾張や吉備のものが多いのはそのためです。大和は吉備とは水路でつながり、尾張も近い。更に、地形は盆地形状で防衛しやすかったのです。
 
もうひとつ重要な視点として、大和の資源があります。高句麗に出雲を取られた弥生人は三輪山を死守しようとしたと考えられます。近畿への進出は残された資源確保の経路として、瀬戸内海、東海、丹後を防衛する必要もあったと考えられます。
 
 
東国の古墳はなぜ前方後方墳なのか
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前方後円墳の造営は西日本が中心です。中部地方より東では前方後方墳が一般的です。
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西日本では、対高句麗で連合を組み、中核勢力である吉備が出雲に睨みをきかせます。これが効いたのか、高句麗勢力は南下せず、東へと勢力拡大を目指します。目的は軍力と経済力の拡大です。東日本は、朝鮮系の領海を通らずに本国と行き来ができ、交易路としても都合が良かったのです。
 
高句麗は“前方後円墳国家”という思わぬ対抗勢力の出現に、対抗策を打ち出します。強豪高句麗といえども前方後円墳連合は厄介に映ったのです。目には目を、ともいうべき古墳造営です。今度は高句麗勢力が自らの方墳をベースに前方後方墳を築造し始めます。そのカタチの効用も理解したからでしょう。
その結果、高句麗の東国支配に呼応するように、前方後方墳が広がっていき、東国での一般的古墳となりました。(※一般に古墳の築造年代は明確でないことに注意。)
 
 
高句麗の衰弱とともに古墳も衰退する
 
威勢を誇った高句麗も、7世紀後半には、唐・新羅の連合軍に“挟みうち”にされ滅亡します。本国の後ろ盾を失った東国の高句麗連合は、一気に衰退していきます。この機に乗じて前方後円墳連合が攻勢に出たのです。
 
東国では、古墳時代後半になると、前方後方墳群の中に前方後円墳が混在するようになります。後方墳連合は、中央政権での地位を条件に手打ちに応じ、後円墳連合の支配下に入ります(飛鳥時代には中心勢力に浮上)。
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高句麗の脅威が失われると、巨大前方後円墳の意義も薄れます。しかし、高句麗に代わって登場したのが唐・新羅連合という数倍大きな脅威でした。古墳造営で“浪費”している場合ではありません。646年、薄葬令の勅令が下り、古墳時代が終焉します。そして、古墳造営で培ったヤマト連合を基盤に中央集権国家建設へと進みます。
 
 
古墳に代わって中央政権の支配を支えた神話と神社
 
古墳は外圧を背景にして、形状の統一や大きさの統制により、中央への権力集中を強固にする機能も有していました。そして、支配体制を磐石にするため、各領主の神格を中央政権の王の神格へとつなぐことを画策します。
 
重要な古墳は精霊信仰の対象となった山に向いています(ex.箸墓古墳は斎槻岳、崇神陵は巻向山を向いています)。それは精霊と首長が一体となるためです。そして、神社は規則をもって古墳を取り囲むように配置されています。そこには、精霊信仰から古墳(氏族)~神社(中央政権)へと習合させていく意図が読み取れます。そして物語として、各地の神話伝承と中央政権の王の物語をつなぐことで、現人神信仰という共認支配は完成します。
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そして、神社への奉納が徴税制へ、精霊のことばが勅令になるのです。この現人神信仰を背景に、直轄領や屯倉(徴税機関)などの実態支配が行われることになります。(中央集権が完成し、唐・新羅へ打って出るのが663年の白村江の戦い)
 
 
高句麗に対抗するための“古墳連合”が、日本国家の基盤をつくった
 
古墳時代を見ていくと、日本では、高句麗を共通の敵と認識し、これに対抗する古墳造営を通じて、大きな戦争を経ずして中央集権国家の基盤を整備したことがわかります。あたかも“古墳築造ゲーム”のように、各クニが大きさ(国力)を競い、序列が明確になることで争いを止揚し、そのトップが中央政権となる構造を作り上げたのです。
その労力・努力は戦争に匹敵するもので、古墳造営は、技術力や軍事力の向上はもとより、のちの飛鳥・奈良文化を創造する日本の国力の基盤にもなったに違いありません。
 
また、副次的には、戦乱を経なかったことで、縄文時代以来の共同体が温存され、自然を崇拝する精霊信仰の上に、氏族の祖霊信仰(古墳)と、王権の現人神信仰(神話)が塗り重ねられ、統合されます。支配者にとっても、基盤となる精霊信仰はその存在基盤の一部を成すものとなったのです。

投稿者 kumana : 2013年02月05日 List  

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