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2011年12月20日

弥生時代の解明3~弥生時代は階層化していたのか?



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前回記事、『弥生時代の解明2~倭人は、どのように縄文人と融合していったか?』で明らかにしたように、縄文人と江南人、そして呉越の民が融合して弥生人となり、弥生クニを形成していきました。

弥生時代は漁猟採取から稲作へ転換、集団統合のために階層化が行われていたと言うのが教科書的には言われてきました。

しかしながら、縄文人と江南人、そして呉越の渡来人は戦争を経ず融合したことと、墳墓に副葬品が登場したことは、一見矛盾しているように思えます。

弥生時代に本当に階層化が行われていたのでしょうか?

また、階層化が存在したとすれば、それはどのようなものだったのでしょうか?
再度、縄文人と江南人、そして呉越の民の流入から集団形成について見てみたいと思います。

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江南人と縄文人による弥生邑の形成(3000年前~2400年前)
『弥生時代の解明2~倭人は、どのように縄文人と融合していったか?』で述べられているように「渡来した倭人だけで稲作を開始したのではない!」という事が分かってきましたが、渡来した倭人(江南人)と縄文人が融合する素地とはどの様なものだったのでしょうか?

日本考古学の定説では、縄文と弥生は性格も文明の質もまったく違う、片方は狩猟採集、片方は農耕をやっており、そこには大きな断絶があると言われてきましたが、文明研究の結果から、稲作漁労に立脚する農耕文明、その延長上にある弥生の文明には、いくつもの共通点する部分があることが分かってきました。

その中でも最も共通する部分は「生命・生産活動に根ざした信仰=生命文明」だったことが明らかになってきています。

縄文が生命文明の原点であり、稲作漁労文明も生命文明の伝統を継承したものです、その稲作漁労文明は生命の源の水の循環系に立脚した文明だったのです。稲作を行うには水がいります。その水を生み出す山を稲作漁労民は崇拝しました。
~・中略・~
稲作漁労民は森、里、海の水の循環系にぴったりと歩調を合せ、生物多様性に満ちた美しい大地を作り出したのです。縄文の人々も弥生の人々も古墳の人々も翡翠をものすごく大事にしました。そして縄文の人々も弥生の人々も太陽、柱、鳥、蛇を崇拝しました。縄文人が崇拝したものと同じものを稲作漁労民も崇拝しているという事です。

参考:対論 文明の原理を問う/安田善憲/麗澤大学出版

また、縄文人と江南人が融合し弥生邑を形成した時代の墳墓は以下のようなものでした。

弥生時代前期初頭から前半の墓は、土壙墓(木棺墓)が主体です。北部九州地方や西北九州地方ではこれに支石墓、甕棺墓など独自の地方的特色を備えた墓が加わります。いずれも集落に近接した場所に、小さな群れをなして営まれることが多いのが特徴です。これは、弥生時代全時代を通して、最も基本的な墳墓のあり方です。

縄文人と江南人は生命文明(精霊信仰)を源流にしていたが故に、共通観念としての精霊・自然神信仰で融合して稲作漁労文明、弥生邑を形成していたことや、当時の墳墓も邑ごとの違いはあれ邑内での違いが無いことからも、階層化した痕跡は確認されず、まさに融合し一体化して邑を形成したことが伺えます。

呉越の開墾民による弥生クニの形成(2400年前~1500年前)
呉越の渡来人はクニを追われた難民であるが故に、渡来してもしばらくは弥生邑から離れて彼らの拠点を築き、稲作をはじめたと思われます。つまり、中国を追われた彼らが真っ先に行ったのは日本での拠点づくり→生産基盤の確立であり、土地が必要であったことが想像できます。

彼らはそれまでの弥生邑とは決定的に「異なるもの」=「金属器」を持ち込んでいました。それゆえに弥生邑から少し離れた場所で、未開の地域を選択し、金属器の鍬で雑地を開墾し水田に変えていったと考えられます。呉人が青森まで北上し稲作を行っていますが、これも稲作を伝播させたと言うより、生活基盤を拡大させるために、積極的に開墾して北上したと見た方が整合するように思われます。

また、呉越の難民は本国では追われた弱者ではありますが、そもそも呉越の国の誕生は小規模な氏族集団の集合体として既に数百年経験してきた民です。彼らは氏族を超える集団統合の必要から何らかの統合手法は身に付けていたと考えられます。

そんな彼らが持ち込んだのが祭祀による土着民との連携です。開墾にはそれなりの人力が必要であり、それを現地の弥生邑(縄文人+江南人)を取り込み渡来した集団ごとに日本国内に広がり、弥生クニを形成していったと思われます。

銅剣、銅矛の青銅器は紀元前4世紀から日本に渡来しますが、その銅の成分分析から江南地方であることが確認されており、九州一帯、さらに西日本に青銅器を最初に持ち込んだのは呉人だったのです。ただ、中国内では武器として使われた銅剣が日本では祭祀具として使われ大型化し、祭壇に祭られました。青銅器を中心に、武器としてではなく祭祀具として縄文人に融合した呉人の取った手法は、いかにも日本的、縄文的融和手法であると言えるでしょう。武器を平和の道具に変えてしまったのです。

これは越人も同様であり、この武器としての青銅器(銅剣、銅矛、銅戈)が祭祀具へと変化していった事例から見て、弥生邑の弥生人(縄文人と江南人)と呉越の渡来人とが融和的に共存、混血していったと考えられます。

呉越の祖霊信仰による集団統合
呉越の渡来人が融和的に弥生邑を取り込んでいったとすると、階層化は行われていないような気がするのですが、なぜ「階層化していたこと」が通説となっているのでしょうか?

弥生時代前期末から中期になると、北部九州地方で銅剣・銅矛・銅戈などの青銅器を特定の墳墓群に集中して副葬する例が出てくるようになります。これは首長墓と考えられ、首長墓に対する祖霊祭祀とこれに伴う各種の儀礼が、弥生時代の政治的社会の形成に大きな役割を果たしたと考えられています。

『魏志』倭人伝の記述から、大人という支配階層のなかにも身分の格差があり、最高身分として最高権威者と最高権力者(女王・王)がいて、その下にはクニを 支配するための行政組織があり、それを統括するような「官」「副官」などの地位を持つ人々があり、特に力のある人々が「一大率」「大倭」となったことが想 像できます。こうした「官」や「副官」などの地位に就く人々は、やはり大人の中でも身分が高い人々であったことでしょう。

こうした身分はどのように決められたのでしょうか。その手がかりとなるのが、先述した弥生時代の王墓です。吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓をはじめ、豪華な副葬品 や施設を備えた墓に埋葬されているのは成人で、子供が厚く葬られることはありません。このことは、こうした特別の墓に葬られるような身分・地位にある人々がその能力を認められる「大人(おとな)」であることを必要としていたことを表しています。このことから、弥生時代の首長や王などの身分はそのクニの成員 によって、相応しいと思われる人物が立てられるものであり、特定の血筋の家族が代々その地位を踏襲するものではなかったと考えられます。ただし、高い身分・地位につく人々は支配者層である大人層であり、そのなかでもその土地を開拓した一族の子孫など格の高い人々であったことが想像できます。

つまり、弥生時代の前期末~中期初頭になると以前とは異なり、多くの副葬品や墳丘などを持つ「王墓」や「首長墓」の出現が、階層化していた根拠として取上げられます。

しかし、これをもって階層化していたと捉えることができるのでしょうか?

王墓に埋葬されたのが成人であり、子供が葬られていないことからも、王らしい身分はあるものの、「それは個人の能力に起因するものであり、決して彼ら特定の氏族に与えられたものではない」ということです。従って、王やシャーマンという能力ヒエラルキーは存在したが、支配階級や特権階級と呼ばれるような氏族は存在していないと考えられます。

生産手段が漁労採集から稲作に変わり自然外圧が弱まったとは言え、稲作も自然外圧の影響を受けており、自然を対象化する能力はまだまだ必要であったと思われます。つまり、弥生クニの王は縄文時代の長老の役割と近似しており、大衆と王の関係を見ても階層化していたとは考えられません。

◆まとめ

1) 縄文人と江南人は共通観念としての精霊・自然神信仰で融合して「弥生邑」を形成。
2) 弥生邑に近接した呉越の邑集団は、集団統合の観点から精霊・自然神信仰にかわる祖霊信仰によって集団統合を図り「弥生クニ」を形成。
3) 子供が埋葬されていないなど墳墓の事例からも支配者層が集団を統合していたのではなく、氏族の首長たちによって選ばれた王によって統合されていたと考えられます。また、墳墓の副葬品についても当時の祖霊信仰=集団統合によるものであり、支配者層による階層化はなかったと考えられます。



なお、この弥生クニの墳墓は「古墳」へと、祭祀を行う場は「神社」へと移り変わります。
氏族集団が連合するために造られた古墳は弥生クニの集団統合の様式を象徴しているように思えますが、神社への変化とはどのようなものだったのでしょうか。
神社からは別の力学=支配層の影が見え隠れします。次回はこの「神社」について扱っていきます。ご期待下さい

投稿者 yoriya : 2011年12月20日 List  

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コメント

 マヤ暦は天文学に裏付けられた精確なカレンダーを有していますね。今年は金環日食に金星の太陽の赤道面通過、金星食と天文学的現象が集中している年ですよね。
 思うに、こういった天文学的事象がマヤ暦の終焉と関わっているのかぁと感じる次第です。
 人類滅亡とか地球の終わりというのはあまりにも話が跳び過ぎているように思いますね。

投稿者 p : 2012年9月28日 21:04

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