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2011年11月30日

「支配者から見た属国意識」~1.朝鮮支配者は日本に来てなぜ変化したか?

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(5世紀頃の朝鮮半島の地図 画像はこちらからお借りしました。)
『シリーズ「日本人はいつモノを考え始めるのか」~プロローグ』を受けて、今回から「属国意識とお上意識の史的解明 支配者から見た属国意識」シリーズに入ります
初回の記事は、題して『朝鮮支配者は日本に来てなぜ変わったのか?』です
もともと、日本の支配者の支配体制は、天皇制の存続や、共同体の残存度も他国と比べて高いことから、支配者側の一方的な支配体制にはなっていないのではないか?という疑問をもとに、支配者のルーツを探るところから、記事をスタートさせていきます
朝鮮支配者が日本に渡来してきたのは、ちょうど今から1600年前ごろと考えられます
もちろん、それ以前にも、朝鮮や中国から日本にやってきた渡来人はたくさんいるのですが、彼らは、小規模かつ追いつめられての亡命者(ボードピープル)なので、征服の意図はなく、土着の縄文人・弥生人とは融和に努めた と考えられます。
しかし、1600年前ごろにやってきた渡来人は、明らかに支配目的で日本にやってきたと考えられます。その根拠は古墳の副葬から読み解くことができます。
1600年前の日本は古墳時代の真っ只中でしたが、約1600年前(古墳時代前期)の古墳の副葬は、平和的、祭祀的、農耕的なものが多く、祭祀色 が強いのです
対して、約1600年以降(縄文時代後期)の古墳の副葬は、戦闘的、騎馬的なものが多く、武装色が強いのです。
前者の古墳に祭られた支配者は、亡命してきた渡来人の可能性もありますが、縄文人と融和を図った上での支配者なので、完全に縄文体質を継承していると見てよいと考えられます。それは副葬品から見ても明らかで、支配者といっても、大衆の期待に応える共同体化した集団のボス(酋長)が祭られたと推定できます。彼らを一旦、『弥生系支配氏族』という言葉で固定化しておきます 😀
一方、後者の古墳に祭られた支配者は、副葬品に武力支配の色彩が強いことから、明らかに支配目的でやってきた朝鮮支配者が祭られたと推測できます 😡
恐らく、朝鮮半島での百済新羅統一で存亡の危機に陥った任那のツングース系の部族が、明確に侵略・支配・殖民の意図を持ち、主力軍を率いて日本にやってきたと考えられます。(その後、百済、新羅からも主力軍が日本に渡来
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(仁徳天皇陵古墳 画像はこちらからお借りしました。)
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ありがとうございます
それでは、さっそく、朝鮮支配者の属国意識に焦点を当てていきます。
以前当ブログでも扱ったように、朝鮮の支配者観念は、中国という強国の隣で培われており、徹頭徹尾『属国意識』 にまみれています
属国意識とは、上に対しては極めて従順で、下に対しては徹底的に横暴という支配者としては最も劣悪な意識構造のことを指します。
したがって、彼ら支配者の興味関心は、専ら上の力への追随だけであり、下=庶民のことなど本音はどうでもよいという類のものです 😡
そのような『属国意識』を抱えながら、明らかに支配目的で日本にやってきた朝鮮支配者ですが、彼らが、従来通りの属国意識に基いた支配体制を行っていたならば、いくら縄文体質を持つ大衆(弥生人)も黙っていなかったはずです。圧倒的な武力差があったとはいえ、支配者に対する抵抗も可能だったでしょう。
しかし、歴史上、彼ら朝鮮渡来人と弥生人とが争ったという事実はなく、彼ら朝鮮支配者は、ほとんど戦わずして日本の大衆を支配したのです。
なぜ、そのようなことが可能だったのでしょうか
朝鮮支配者が戦わずして大衆を支配できた理由は、大衆側が受け入れ体質の弥生人だったからということがまず考えられますが、一方で、日本にやってきた朝鮮支配者の意識(支配者の属国意識)が、縄文体質を持つ弥生人に触れることで、なんらか変質したことも大きな要因として考えられます
どのように意識が変質したかというと、下に対しては徹底的に横暴に振舞う属国意識を持っているはずの朝鮮支配者が、下(大衆)に対する配慮を行うようになったのです
時代はちょっと後になりますが、『著書:民衆文化と天皇 著者:歴史学研究所 発行年:1989年 発行所:青木書店』という本の中に、大衆と支配者との関係が詳しく記載されている箇所があったので、以下に引用させていただきます

(前略)
八世紀初頭に完成した日本の古代国家は、中国から受容した律令制という先進的政治体制によって、天皇を頂点とする中央集権体制を成立させた。
国家体制としてはまさにその通りなのであるが、その一方で伝統的な地域社会の社会生活の秩序をそのなかに取り込んでいる。
地域民衆の支配の具体的義務の責任を負ったのは郡司であるが、郡司には、地域の伝統的名族で、それ以前からの地域での社会的・政治的・宗教的生活の秩序を人格的に体現していた国造を、優先的に任命することを原則としていた。
律令国家は、地域民族の伝統的な社会生活の秩序を基本的には否定することなく、郡司を通じてそれとの接合をはかり、それによって支配体制を完成させているのである。
したがって民衆の側からすると、彼らの日常的な社会生活とその秩序が「丸ごと」国家支配の体制に取り込まれていて、それを離れたところでは、彼自身も家族も恋人も生活できないという関係におかれていたことになる。
このことが郡司などの官僚を通じて伝えられる「大君のみこと」に対して、これにあらがうことはできないという関係をもたらす最大の理由であった。
(後略)

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(展望飛鳥古京図(飛鳥歴史公園展示パネル 画像はこちらからお借りしました。)
ちなみに、『郡司』とは、律令時代に、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官僚のことをいい、『国造』とは、律令時代以前の古代日本における地方の有力者(この場合地域共同体の首長と同義)をいいます
引用文からもわかるように、朝鮮支配者の支配体制 として特徴的なのは、大衆の活力の源ともいえる共同体を壊さなかったところ にあり、明らかに大衆に対する配慮 が垣間見えます。
どうやら、『大衆』 とは、単に農民だけを指すのではなく、朝鮮支配者に服属した(共同体化している)弥生系支配氏族も含まれる と考えた方が支配者と大衆の意識をスッキリ構造化できそうです 😉
それでは、なぜ朝鮮支配者の属国意識が変質したのでしょうか
これに関しては、以前に当ブログの記事で扱われたことがあるので引用させていただきます

日本は大陸と海で隔てられた島国です。
その地理的要因により、日本人は朝鮮人ほどに属国意識が顕在化することは少なかったようです。
朝鮮半島は中国と陸続きであり、そこで晒される圧力は島国日本とは比べものになりません。朝鮮は中国との関係に国家の存亡そのものが懸かっており、常に中国の顔色を伺う状態であった事は想像に難くありません。そこで刻印された「属国意識」は、極めて深く大きい物でした。
これに対し、四方を海に囲まれた日本では、大陸からの圧力は数段下がります。
加えて、戦乱が少なく、温暖湿潤で物なり豊かな日本では、安定第一と秩序収束が大衆の一番の期待となります。朝鮮半島から来た渡来人達も、こうした安定収束と受け入れ体質の縄文人達と触れる中で、彼らの持っていた「属国意識」もまた変化していったと考えられます。
大国との力の序列を自国家の存在基盤とした朝鮮の属国意識は、人同士、集団同士の共認関係と秩序構築を安定基盤に置く日本的な意識に変質して行きます。
天皇家を絶対不可侵の存在として共認し、それを頂点に戴く事で安定維持を図る仕組みや、諸侯間において盟主との序列関係をデモンストレーションとして制度化した江戸時代の参勤交代制など、朝鮮半島から持ち込まれた純属国意識は、国内の安定維持と秩序形成のために変質させた日本独自の「属国意識」へと変わって行きます。
これが日本における属国意識の正体なのではないでしょうか。
しかし、属国意識の本質である、「長いものには巻かれろ」と外圧を捨象する思考、事が起こってから「どうする」を考える思考は日本人の意識の深層に刻印されている事もまた事実であり、今後起こるであろう市場社会の崩壊や社会の混乱といった状況に対応する事が出来ません。
その事を理解し、どう考え行動すれば良いのかを考えてゆく為にも、日本人の民族特性の一つであるこの属国意識の正体を今ここでしっかりと追求してゆく必要があると思います。

大衆への配慮に至ったのも、朝鮮支配者にとって、縄文体質を持つ弥生人が、信じられないくらい素直で従順だからであり、ほとんど争うことなく、支配体制が受け入れられてきたからだと見ることができそうです
というのも、当時の朝鮮支配者に同化して考えてみると、大陸では当たり前の力の原理 に物を言わせて従わせるという支配方法が、縄文体質の世界では全く不要なのです これは世界的に見ても極めて特異なことで、支配階級の側も、力で制圧するのではなく、弥生人たちと仲良くやった方が得→庶民の生活が第一という意識が形成されていってもおかしくありません 🙂
一方の大衆側(弥生系支配氏族含む)から見ても、地域共同体が破壊されずに維持されてさえいれば、日常は共同体内の共認充足で生きていくことができるので、安定の為の身分序列は変わらない方が良いと考えても不思議ではありません。
このように見ていくと、大衆側は言うまでもありませんが、現在の日本の支配階級にも見られる「みんなのため」「民の生活第一」という発想が形成されたのも、庶民大衆が縄文体質だったから と捉えることもできます 😉
また、朝鮮支配者の意識が異常な上への追随意識から下への配慮に変化した理由をより一層深めていくために、以下の点も考察しておく必要があります
それは、支配目的でやってきた当時の朝鮮支配者の人口と大衆(弥生人)の人口比です。
というのも、圧倒的な武力を持つ主力軍を率いて支配目的で渡来してきた朝鮮支配者の人口は、それまでに日本に拡がっていた弥生人(弥生系の支配氏族含む)の人口に比べてはるかに少なかったと考えられるからです。
もし、そうであるならば、弥生人がつくってきた集団共認を無視して大衆を支配することはできなかった可能性も否めません
そのような状況の中で、支配目的で渡来した朝鮮支配者も、まずは土着の弥生人(弥生系の支配氏族)の意識に同化し、さらに一定自らの支配の手法にそれらを取り込まざるを得なかったのではないでしょうか
そして、縄文体質を獲得している弥生系支配氏族を自らの体制に取り込む中で、朝鮮支配者の意識化に、下への配慮体質が継承されていったと考えることもできます 😉
当時の朝鮮支配人と弥生人との人口比については押えておくことで、もう一歩本質に迫っていけそうな予感がします
ということで、次回記事は、『朝鮮渡来人と弥生人との人口比はどうだったのか?』 を分析していこうと考えておりますので、お楽しみに

投稿者 marlboro : 2011年11月30日 List  

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コメント

初めまして。
縄文時代と言うのは実に不思議ですね。

投稿者 KESSELRING : 2012年8月21日 01:31

KESSELRING様
先日から記事と関係のないコメントが続いていますので、管理人の権限にて削除させていただきました。以後、コメントは記事に対する感想や質問、関連する事実や史実の投稿に限定願います。

投稿者 管理人 : 2012年9月11日 21:49

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