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2011年12月21日

「支配者から見た属国意識」~4.支配者が作り出した天皇主義2

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 十六弁八重表菊紋  古代朝鮮半島勢力図  伊勢神宮宇治橋大鳥居
 天皇主義の詳細を解明するために、具体的な史実を解明してゆく必要があります。全号では、社会統合という視点で、支配者と被支配者の意識の収束先を見て来ました。こうした根源的な意識の収束が、日本人に特異な体質である民の「お上捨象」とお上の「民の生活配慮」を生み出し、天皇という権威を現在まで継承してきました。
さて、今回はもう少し突っ込んで見たいと思います。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
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では、まずは、
1】古代日本列島における部族統合とはどんな統治の仕方だったのか?
・1600年前以前に列島で勢力を振るった豪族たちは、どのような部族であったか?
・どのような部族集団と部族集団間を統治していったのか?
 いままでのこのブログでも語られてきたように、縄文人は受け入れ体質を色濃く残しており、その後、中国の南方系農耕民族の江南人(呉人→越人)の文化が塗り重なって混血し弥生人が形成されました。その文化は、縄文人の受け入れ体質を継承し、集団間を贈与という贈り物でつなぎ、部族内は、母系制・母権制を取り、精霊信仰をベースとしてまとまり、海人族と言われるように航海術や農耕技術などに優れた文化をもっていました。部族の方針は、合議制で決定され、信認のある部族のボスが長となって集団を形成していたのだと推測されます。
下記を参考として下さい。
◆江南人と縄文人の融合と弥生人の形成過程などは下記が詳しいです。
●日本人の「お上」意識と支配階級の属国意識~中間整理 江南人との混血における受け入れ体質
●弥生時代の解明1 ~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?
●外圧状況から見る日本婚姻史 ~群婚の崩壊~
◆江南人とはなにか?は下記が詳しいです。
●江南人と日本人:::倭人とは何者か?1
●江南人と日本人:::倭人とは何者か?2
◆婚姻に関しては下記が詳しいです。
●日本人の起源 第2部 縄文稲作の究明 05. 日本人形成の基層に在った集団-北部九州の人々-
その後、弥生前期末(BC200)年から中期初頭(BC300年)に九州にあったとされる伊都国、奴国、早良王国などが登場します。この段階では、小国の集まりにすぎず、列島には、国家や民族、氏族や部族などの概念がなかったと思われ、それらが登場するのは、古墳時代からといえそうです。特に、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力が台頭し始めます。
 3世紀から始まる古墳時代に、ヤマト王権(「大和朝廷」「大和王権」「倭王権」「ヤマト政権」「大和政権」とも言われます)という「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国の王を中心として、有力氏族連合して成立した政治権力、政治組織ができました。この王権を構成するのが、狗奴(くな・呉系)・任那(みまな・加羅系)の両国が誓約(うけい=婚姻)で天皇家と合体した勢力と倭の国各地(各国)出身の豪族の和邇(呉系・百済派)、葛城(加羅系・任那派)、大伴(加羅系・百済派)、物部(呉系・新羅派)、蘇我(高句麗系、百済系)、中臣(加羅系・百済派・後の藤原氏)などの「王」です。それぞれに日本列島の土地を領有する連合国家で、まだ完全統一的なものでは無かったようです。
 ヤマト王権以前の弥生人には、統合観念(部族名や万世一系の父系継承制、現人神や三種の神器、天孫降臨思想や太陽神の信仰対象)は必要ではなく、部族独自の神話を持ち、それぞれの神々を祀っていたものと思われます。また、集団の自立性が高く、農耕生産による土着、自文化や思想を継承し続ける場合が多かったと推測されます。(後段の江上氏の見解も参照)
 弥生時代後期までは、日本には、部族共同体が残存しており、集団は、部族連合という統合様式をとって同類圧力を止揚していたと推測され、そこには、前述した統合観念は殆ど見られないようです。本源共認と規範があればそれで集団として一定のまとまりが可能であり、その部族内での信認された身分序列によって緩やかに統合されていたといえるでしょう。民にとって必要なのは、現実の安定・秩序共認で、架空の遠い存在である天皇という身分や地位や権力などの統合観念や民族意識も不要であるとの結論に至ります。
 このように、日本で生まれる素地がない天皇制を誰が、どのように持ち込んだのでしょうか?その前に、1600年前に支配目的で渡来した民族を見てみましょう。
2】1600年前に支配目的で列島に渡来した民とは、ツングース系朝鮮系氏族とあるが、それは、具体的にどこのどのような民なのか?
・半島で部族や国家を形成した後に渡来した、遊牧騎馬民族か?半島の農耕民族か?百済・新羅・高句麗・伽耶の王族・貴族?か、または、大陸より直接、日本海を渡った北方遊牧騎馬民族か?
です。
◆◆2つの勢力があります。◆◆
◆半島から列島へ
半島から列島に逃避して来たのが百済・新羅・高句麗・伽耶の王族・貴族です。彼らの歴史や社会及び文化から見ると、韓半島に土着していた民+江南人の上に、北方騎馬民族(ツングース系)の支配層が塗り重ねられる形で建国されています。彼らは、韓半島での三国と高句麗、中国の乱戦の時代に、王族、貴族がこぞって列島に避難してきました。しかし、その中で、列島を支配する目的渡来した民族が、伽耶(金官伽耶国)の辰(秦)王国一族のようです。【江上波夫の天皇騎馬民族説より】
詳しくは下記の井上宏さんの記事を参照下さい。
■天皇騎馬民族説の進化① 朝鮮半島において、騎馬民族と韓人が混交して加羅を形成
■天皇騎馬民族説の進化② 加羅の王朝による日本征服
■天皇騎馬民族説の進化③ 日本に本拠を移した辰王朝が、“倭の五王”
■天皇騎馬民族説の進化④ 百済と日本の秦氏は辰王朝の系統
◆大陸から列島へ
大陸の北方騎馬民族は、日本海を直接渡って、列島の日本海側に上陸していた可能性があるということです。
有史以来、高句麗より直接、日本海を経て、何度も列島の日本海側の越と呼ばれる場所に渡った形跡があります。その後、新潟、長野、武蔵国などにも北方騎馬民族や高句麗の影響のある遺跡や神社が作られます。この事例は、北方騎馬民族が支配目的で列島に渡来し、東国に殖民したことを示します。
 日本書紀の斉明6年(660)3月条の記事に、幣賂弁島と渡島(へろべのしま=奥尻島?か大和碓にあった島か?参照:■伊那の谷から古代が見える)という島が日本海中央にあり、また、ツングース系狩猟民族の粛慎(アシハセ)等が渡来し戦闘を繰り広げ植民したという記録もあります。
中国の五胡十六国時代(304年~439年)に、中国華北に分立興亡したモンゴル系、チベット系遊牧民族民族(五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌など)のあり、その戦乱に押し出されたツングース系遊牧騎馬民族(粛慎(アシハセ)らは日本にも及び、日本海を直接、渡っただろうと推測されます。(『十六国春秋』より)
このようにして、1600年前の北方遊牧騎馬民族の文化が北九州や東国日本海側から持ち込まれたと思われますが、列島への影響の大きさは、後世を見ると、どちらかというと半島の伽耶(金官伽耶国)の辰(秦)王国一族の影響が大きかったのだろうと推測されます。
3】この時代の半島と大陸と列島の状況はどういった状況であったのか?
に関しては、下記を参照下さい。
中国では、五胡十六国時代(304年 – 439年)~南北朝時代(439年 – 589年)、朝鮮半島は三国時代(新羅・百済・高句麗)の群雄割拠の時代です。この時代には、半島からも多くの避難民が列島に渡来したのだろうと推測されます。大陸の状況は前述したとおりです。
■朝鮮半島の歴史(ウィキペディア)
■中国の歴史(ウィキペディア)
半島の伽耶国は、高句麗はもちろん、百済、新羅と同様に遊牧騎馬民族の南下、掠奪により、支配層が幾重にも塗り換わっています。この北方の遊牧騎馬民族から持ち込まれたとされる、天孫思想が日本を統治する概念となったと推測されます。
北方遊牧騎馬民族の多くは、このように天孫思想や万世一系の系統志向をもっているようで、次回は、そこを調べてみたいと思います。なぜ、北方騎馬民族はこのような思想が必要だったのかを調べてみます。

投稿者 2310 : 2011年12月21日 List  

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コメント

「自然信仰と祖霊信仰の共存構造」面白く読ませてもらいました。(少々長かったので、飛ばし読みしましたが・・・)
ところで、古代日本では、「人は土の中から自然に生えた葦(草)であり万物は、自然から生じ自然に帰って行く」と信じていたと読み取れる内容が古事記の神話の中(人間の起源ー人である草)に在ります。因みにキリスト教では、万物は一人の神が造ったと成っていますが・・・
一方、祖霊信仰は、同じく古事記の記載では、国が出来た後、王位の正当性を主張する為に積極的に語られるようになったようです。
上記情報は、古事記解説本を読んでいた中で書かれていた内容で、吟味した訳では在りませんが

投稿者 大阪のおじさん : 2012年9月10日 09:09

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