シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」9~遊牧民からみた中国史 |
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2012年01月31日
庶民が作り出したお上意識2~浸透しなかった天皇制
(天武天皇・矢田山金剛寺所蔵)
現代では、私達の誰もが「天皇制」「天皇」の存在を知っています。憲法でも、天皇は日本国民の「象徴」であるとされ、多くの人はそのことに対してそれほどは違和感を感じていないでしょう。
しかし、突き詰めて天皇の何が「象徴」で、どのような系譜を辿ってきたのかを考えることはせず、むしろそれを考える事は天皇に対する冒涜でありタブーであるとされています。また明治以降、津田左右吉など何人かの歴史学者がそれに異を唱え、史実との整合性を見直そうとしましたが、忽ち当時の国粋主義者に取り押さえられ、学問としても取り上げられる機会はありませんでした。
したがって現在では、庶民にとっての天皇とは、その存在そのものが当然であり、日常でもあるのです。最近ではマスコミの後押しもあり、皇室の行事は忽ち国民的行事として取り上げられ、少し前ですが雅子さまのご成婚が新聞紙面を覆ったことをご記憶の方は多いでしょう。国家体制が不安定になり、秩序収束、民族収束が加速化している現代、天皇制はむしろ為政者に利用され、また大衆も無意識に望んでいる兆候すらあります。
しかしこの天皇の大衆化、誰もが信じ、誰もが否定しない天皇史観は、天皇の始まりとされる大和朝廷の頃から脈々と流れていたのでしょうか?
この答えは後に回します。読者の皆さんも、本文に入る前に少し考えてみてください。
今回の記事はそれを明らかにする目的で、まずは天皇制と古代信仰の関係を見ていきます。
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天皇と古代信仰の関係は?
①精霊信仰(縄文時代~)
~縄文人は精霊信仰によって1万年間、集団を統合していた
森を生活拠点とし「木の実を主食とする採集生産を基本的生活様式としていた」縄文人は、あらゆる自然物をカミとして崇め敬い、大切にしました。
精霊崇拝をとる古代人は、自然の働きはすべてカミとかタマとかモノとかいわれる、目に見えないが尊いものの力によって起こされると解釈した。そのカミなどと呼ばれたものが精霊にあたる。(中略)古代人の信仰であり、科学思想でもある根本的価値観が「精霊崇拝」である。(武光2009)
※参考:『縄文人を作った採集の民 D2』
②祖霊信仰(弥生時代・紀元前1千年頃~ ←江南人)
~精霊信仰と祖霊信仰を合体した弥生式祖霊信仰が登場。万物に宿る精霊が人に移行した
弥生時代になると、大陸から流入した江南人が(稲作とともに)持ち込んだ祖霊信仰が、精霊信仰と融合しました。
弥生人は、新たな祖霊信仰と、縄文以来の精霊崇拝とをふまえた祭祀を行なっていた。(中略)これは、土地をひらいて田畑をつくった先祖たちに感謝する気もちによって生じたものであった。弥生人にとって、農業を考え出して農地をひらき、自分たちの生活の基礎をつくってくれた先祖は、神にも等しい存在であった。(中略)人間の霊魂とその他の霊魂とが集まったものが、神としてまつりの対象とされた。そして祖先たちの霊魂が、その霊魂の集団を指導する立場にあると考えた。(武光2009)
③首長霊信仰(弥生時代中期・紀元前100年頃~ ←呉人・越人)
~祖霊信仰を束ねたのが首長霊信仰
倭人の国であった中国江南の呉・越から渡来した人々は、(祖霊信仰を発展させた)首長霊信仰をもたらし、(古墳とともに)神社の原型となる祭祀場がつくられていきます。首長とは、稲作による集団規模の拡大に伴って、集団を統合するための課題が高度化し、村々を束ねるクニ(小国)を統治するため、登場した役割です。
祭祀の場における首長の地位が高まっていくなかで、首長自体を神格化する発想がつくられた。「まつりによって神々の心を動かす首長は、大きな霊力をもった人間で、かれの霊魂は死後に精霊たちの指導者となるであろう」というのである。この考えにもとづいて、首長霊をまつる古墳がつくられた。(武光2009)
※参考:『弥生時代の解明1 ~倭人は、なぜ縄文人に受け入れられたのか?』
④天皇制(3世紀半ば~ ←天孫族)
~神話によって支配を正当化した天皇制(否定するのではなく取り込んだ)
朝鮮半島からやってきた騎馬民族の天孫族は、首長霊信仰を取り込んだ神話をつくり、徴税拠点としての神社ネットワークを広めて全国支配を図りました。
大和朝廷ができる段階になると、大王の祖先神が最も尊い神で、一地域を治める豪族の祖先神はそれに次ぐ神とされた。(中略)皇室の祖先にあたる大王家が指導する集団が持つ神話が、まずあった。そして、それに他の共同体の神話がとりこまれ、さらに大王家の神話群が渡来系の知識人の手で体系づけられていったのである。(武光2009)
大和朝廷は、天皇家の祖先神に連なる神々を「天津神(あまつかみ)」、各地方を治める豪族の祖先神(先住の神々)を「国津神(くにつかみ)」として、その序列関係を神話によって体系づけ浸透を図りました。国津神から天津神への“国譲りの神話”は、その代表です。
弥生人たちが信じていた神「スサノオ」を、カミサマではあるが、乱暴もので人間の世界に追い出された「駄目な」カミサマと描いているところが味噌かと感じられます。スサノオをまるごと否定したり無視したりせず、その上に、より偉いカミサマがいるのだという話になっている。
(『弥生時代の解明4~神社に見る中国系から朝鮮系への転換、支配体制の確立』)
ここで注目すべきは、大和朝廷は日本の古代信仰を否定することなく、むしろ自らの神話の中に取り込んだ、という点です。
(天照大神)
さて、以上見てきたように天皇制にいたる信仰の流れは、精霊信仰⇒祖霊信仰⇒首長霊信仰⇒天皇信仰、と以前の信仰を下敷きにして、否定せずに塗り重ねられていることがわかります。それは支配者の意思もありましたが、何よりこれだけ続いているというのは、支配される側の縄文人が受け入れ体質であり、渡来した民を一旦肯定的に見ていたからだとも言えます。
この流れで見ていけばもちろん天皇制も受け入れられ、時の弥生人たちが自然と天皇を崇拝したのではないかと思えるのですが、ところが・・・です。
ほとんど浸透しなかった天皇制
天皇制の起源は、実質的には天智天皇、史実では天武天皇から始まっています。
時の日本の状態とは大国、唐にまさに飲み込まれようとしていました。それまでの神道は否定され、仏教が登場。政治体制はそれまでの連合型から帝国型、日本初の中央集権型が敷かれました。701年、大宝律令の時代です。中身ではなくまずは外側としての国体で唐と対抗しようとしました。戦争ではなく国家体制で威嚇しました。その代表が天皇だったのです。天皇制はその時代に正式に国家体制として君臨し、当時中国しかなかった天皇制を日本にも同様に存在するとしたのです。もちろん唐がそれを認めるわけもなく、日本の一方的な遠吠えでしたが、それでもこの時代天皇という体制を取る事で、国家体制を整備したのは事実でした。
そして中国の天皇が皇帝の上に居て、政治も神事も共に担っているのに対して、日本の天皇は神事のみを担うというように定めました。日本は国家体制の最初から神事と政治は別物だったのです。
なぜ、このように政治から天皇を切り離したのか?
これには2つの理由がありました。
①序列決着に用いられた権威
ひとつは為政者の対立を避ける為です。大和朝廷にはさまざまな朝鮮系の王族が集合していました。百済、新羅、高句麗・・・そのままでは互いに日本国内で衝突が起き、国を作る前に空中分解してしまいます。時の為政者はそれを「和を以って尊し」とし、その決着の方法として政治から離脱した超越的な天皇の権威を用いたのです。
もちろん奈良時代には天皇の権威を受ける為の血なまぐさい闘いはありましたが、それでも表立っての戦乱になるような肉弾戦は止揚されました。このように天皇制とは、まずは支配者の為の支配者の制度なのです。
②大衆支配の意図
もう一つは、大衆の支配の為です。象徴である天皇が支配の為、などと言うと一瞬「?」と思われるかもしれませんが、そこは為政者が巧みに物語を作り上げ、大衆の土着信仰の頂点に天皇が在る事を神話で示しました。いわゆる国譲りや国生みの神話です。
日本書紀や古事記の天皇の始まりが渡来人が来るはるか前、縄文時代にまで遡って捏造されたのは有名な話ですし、そこまでして、太古の昔から天皇に至る系譜があり、日本の神々は全て天照(天皇)の子孫であるとしたのは、“渡来”という事実、“支配”という意図を隠し、最初から支配者が日本に居り、“支配”ではなく“守っている”として、大衆を抑えようとしたのです。云わば、少数民が大勢を支配する際に用いる反乱、反逆を防ぐ方法論です。その為には、天皇は政治のさらに上(あるいは別の処)に位置しておく必要があったのです。
◆お上意識の延長線上にある天皇
しかしそのような作り話が、どれほど当時の大衆に響いたでしょうか? 確かによくできた話として聞くことはしたかもしれませんが、「自分達の守護神が天皇からつながっている」と本気で考えた庶民は、そう多くなかったと思われます。その証拠に、わずか50年も建てば、天皇を加えた律令制を中心とする各種の定め事は無効になっていきます。
つまり、大衆はお上の政策に不満はあったものの、「自分達の生活(共同体)を守ることさえ出来ればよい」と、(お上捨象と同様に)天皇の存在を無視したのではないでしょうか。天皇の捨象とは、お上捨象の延長線上にあったと思われます。
さらに天皇制が大衆に浸透しなかった理由は、その後の神社の有り様にあります。
◆「徴税機関」であった神社が「利益集団」に変質
唐の圧力が強かった時代に、全国に構築された“徴税機関”としての神社ネットワークですが、その外圧が弱まってくると朝廷の統制が効かなくなり、貴族などの私有地を広げて「荘園」を運営していきます。(朝廷への納税を免除された)荘園が拡大すればするほど、徴税拠点としての神社の役割は薄れました。それどころか、有力な神社は貴族や寺とともに、自らの荘園を作り拡大したのです(参考:『知識の泉』 )。本来、天皇制を広げ、朝廷の広報機関になるはずだった神社もわずか3世紀もしない内に別の機関になっていったのです。
(「図・本格的荘園が出現するまで」)
このようにして朝廷の力が衰退し(11世紀以降、不輸不入権により荘園は朝廷から完全に独立)、平安末期の承久の乱に至っては実質上の天皇の実権が失われ、天皇の存在もいよいよ庶民の信仰意識から消えていったのだと思われます。
まとめ ~庶民にとっての天皇制とは?
冒頭に提起した疑問に立ち返りましょう。
天皇の大衆化、誰もが信じ、誰もが否定しない天皇史観は、天皇の始まりとされる大和朝廷の頃から脈々と流れていたのでしょうか?
(これまでの記述で示したように)答えはNOであると考えます。
庶民の生活基盤である共同体が磐石な時代は、その共同体を守ることが第一であって、天皇への関心は最初からほとんどなかった、さらに荘園の広がった中世以降は、その認識さえ薄れてしまった(ほとんど消えてしまった)と考えられます。
逆に言えば、市場社会に突入し、共同体を超えた超集団の統合(国家や地域の統合)が必要となる近代(明治)以降に、大衆の秩序収束の需要を受けて天皇の地位が浮上していったのではないでしょうか。その転換点は、おそらく明治より以前の、江戸時代のどこかにあるのではないでしょうか?
そこで次回、「江戸時代に天皇の大衆化は起きたのか?」というテーマで追求したいと思います。どうぞお楽しみに♪
参考文献
武光誠『一冊でつかむ天皇と古代信仰』2009年、平凡社新書。
武光誠『天皇の日本史』2007年、平凡社新書。
吉田孝『歴史のなかの天皇』2006年、岩波新書。
稲田智宏他『すぐわかる日本の神々』2005年、東京美術。
投稿者 yaga : 2012年01月31日 TweetList
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