第3部 「庶民が作り出したお上意識」~お上意識の醸成過程 |
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2012年01月22日
シリーズ「日本と中国は次代で共働できるか?」9~遊牧民からみた中国史
今回の中国シリーズではこれまでの8回の記事で古代から漢代までの中国史を見てきました。
1.国家形成前、夏・殷・周時代の支配・戦争の歴史
2.中国の市場国家の起源とは?
3.道教から中国の可能性を探る
4.中国の大衆史①母系から父系に転換したのは何で?
5.中国の自然外圧は豊か?厳しい?
6.春秋戦国時代~秦・漢時代の支配・戦争の歴史
7.鉄によってもたらされた中国の市場
8.諸子百家とはなんだったのか?
ここまでの段階でも既に明らかなように中国とは遊牧民が作った商業国家であり、官僚国家である事が明らかになってきます。同じ遊牧民が作った西洋や中東が武力と宗教で支配の系譜が続いたのに対して中国の場合、武力は用いますが、ここまでの中国史は集団と集団の縄張り争い、覇権闘争の中から国家が誕生してきた事が伺えます。
群雄割拠の中、武力で制覇した秦であっても、制覇した後はひたすら防衛の為の施設=万里の長城を築き、北の遊牧民に備えました。
中国とはいろんな見方ができると思いますが、今回の記事では、一旦遊牧民から見た中国という視点で古代から中世、そして近世まで俯瞰してみたいと思います。
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中央アジアの遊牧民集団とは何か?という部分を最初に扱いたいと思います。
遊牧は農耕、牧畜の延長として約8千年前頃に西のイラン高原と東のモンゴル高原でほぼ同時に始まります。ヤギや羊の家畜を連れ立って家族単位で動き、牧草地を求めて1年間を通して転々と移動、定住という形態を取らないのが遊牧民です。
やがて遊牧民も集団化し、近接する遊牧民の間で情報交換や縄張りの調整がなされます。急激な乾燥化や寒冷化に見舞われた中東はその後、食糧の取り合いから略奪闘争に発展しますが、モンゴル高原は比較的豊かで広い草原が在った為、遊牧民集団は互いに連携を取り、連合という組織形態を作っていきます。
西の遊牧民が自然外圧が厳しくあっという間に皆殺しの玉突きから戦争集団に転化していったのに対して東の遊牧集団は長い遊牧民の歴史を経て戦争を抑止する組織論を編み出し、支配―服属の関係で統合する手法を取っていました。
従ってモンゴル系の遊牧民の組織論とは血縁を紐帯としながら、横に繋がる超集団を統合する共同体の延長とも言えるのです。
書籍では以下のように書かれています。匈奴に見るモンゴル遊牧民の本源性
>紀元前三世紀末に冒頓単于(ぼくとつぜんう)が匈奴の騎馬民族国家を建設し、四隣に向かって積極的に軍事活動を起こしてから飛躍的に発展した。
彼らの社会構成は厳密な意味での氏族や部族単位で服属させたわけではない。血縁の近い十人の騎馬兵を最小単位とし、百、千、万の十進法単位のピラミッド体系で統合する、きわめてシステマティックな社会統合組織である。もちろん、この背後に騎兵たちの家族がいる。それらの統合者として諸種族の長を据え、様々な民族の連合体となったことで広大なモンゴル高原を支配・統合できたと考えられる。
これらは匈奴以後に現れた突厥やモンゴル帝国などにも引き継がれる特徴である。
彼らは略奪や殺戮も行ってきたが、示威行為や話し合いなどで服属させ、可能な限り戦争を避けてきた。~※参考文献「騎馬民族国家」江上波夫、「遊牧民から見た世界史」杉山正明
これがこれから示す遊牧民の基本的組織論なのです。
さて、本題に戻ります。
中国の遊牧民支配の段階として大きく4つの段階に分けてみました。これらの段階の変化にはいくつかの要素がありますが、中国を取り巻く周辺遊牧民の状態がそれを規定しているようです。
第1段階:周辺遊牧民がまだ国家という形態になっていない段階
周辺遊牧部族が中原に進出して交易と農耕の中心地を押さえる事で国家を形成した 夏、殷、周、春秋戦国
~遊牧民と農耕民は圧倒的な人数差があり、農耕民の文化や思想を守る形でその上に遊牧民集団が形成されます。従って遊牧支配氏族は血縁で結ばれた選民集団でした。
それぞれの遊牧民が農民と手を結び虫食い状に華北に集結したのが春秋時代であり、やがて武力による勝ち抜き戦が行なわれたのが戦国時代です。しかしこの時代の戦争は農地の奪い合い、開発民の取り合いであり、農民が戦争に巻き込まれることは少なかったようです。従って漢代には中国は5000万人の人口を抱える事になります。
第2段階:周辺遊牧民に武力国家が形成され拡大していった段階
周辺遊牧民へ対抗する為に国家が形成、継続された。
秦、前漢
~紀元前5世紀からモンゴル高原を中心に匈奴という組織が成長します。匈奴とは定まった氏族ではなく、トルコ、モンゴルから中国北部に渡る組織だった遊牧民の総称を指します。中国側が付けた名前で、周代から戦国時代にかけての1000年間にモンゴル高原の遊牧民の組織化が進み、また中国との遠隔交易によって鉄や銅を入手し武力を高めていった事を示しています。
この匈奴の組織論は後のモンゴル帝国に受け継がれ、遊牧連合国家のモデルとなります。
つまり、周~春秋戦国時代に華北の豊かさが飛躍的に向上しましたが、同様にその周辺遊牧氏族もその時期に経済的恩恵を受け、成長していました。
中国を横断する万里の長城は匈奴がいかに強く、脅威であったかを物語る物証ですが、匈奴は逆にこの時代、それまでの華北との経済的交渉が途絶え、西側へ勢力を拡大せざるを得なくなります。4世紀には匈奴の一派であるフン族がボルガ川に進出、インドでは初代王朝のグプタ朝を同じく一派であるフーナ族が滅ぼしてインドに進出しました。
2世紀には匈奴帝国として国家的形態を取り、上記のようには西へ勢力を拡大、一部は中国に圧力をかけるという形で中央アジアの勢力が拡大し、ひとつにまとまっていきます。匈奴はこのように武力に特化した遊牧民として紀元前後を境に1000年間影響力を維持しますが、やがて内部分裂が起き、西(南)匈奴と東(北)匈奴に分かれます。しかしこの分裂が以後の中国をさらに遊牧国家に変えるきっかけとなりました。
第3段階:中央遊牧民国家が中国に侵略する時代
漢族が遊牧民国家と手を結び、やがて遊牧国家が中国化する時代
後漢、北魏、北朝、隋、唐
~この時代は後漢から始まりますが、それまでは中国の国家の秦に代表されるように周辺遊牧民を防ぎ、防御するという形で国家運営してきましたが、国力の弱体化と歩を併せて中国側から最大の敵である匈奴に歩み寄り同盟を結ぶという転換が起きます。後漢の皇帝は分裂後の南匈奴と手を結びます。しかし、その後中国に入り込んできた匈奴の一派に国内を蝕まれることになります。
中国史上最大の農民反乱である黄巾の乱です。この反乱の首謀者に匈奴がいたかどうかはわりませんが、農民を横のつながり(幇)という組織で結びつけ国家権力に反旗を翻すこの手法は中央アジアの遊牧民の組織論と極めて似ています。
そしてその反乱で人口が1/10に激減した華北に北匈奴を組み込んだ鮮卑族が深く進出します。鮮卑族はかつては匈奴の一派でしたが、分裂と同時に北匈奴を率いる中心氏族となります。
後漢が滅亡後、五胡十六国の時代に入り再び長い戦国時代に突入しますが、この時代を経て隋、唐を作り出したのがこの鮮卑族でした。鮮卑族はさらにこの時代に中国を足がかりに朝鮮半島、さらには日本まで進出し、その勢力を伸ばします。以後の東アジアの歴史は鮮卑族が作り上げた組織論によって継続されていきます。
彼らの取った手法がいわゆる騎馬民族の支配手法で、その土地の文化や風土を最大限残してその上に支配者として君臨するという方法です。
五胡十六国の時代に東晋を押さえた鮮卑族はその手法をさらに特化させ改革を断行しました。孝文帝(471~499在位)は都を華北の山西省の平城から華南の洛陽に移したのを初め、胡服ならびに朝廷における鮮卑語の使用を禁止、漢字で2文字以上がふつうの姓を漢人風に一字に改めるなど大胆な改革を行い鮮卑の漢人化を推し進めました。
つまり支配した国に支配者自身が帰化するのです。そして一旦帰化してその頂点に立って以降は、鮮卑族のスタイルを土着民族に押し付け拡げていきます。このように鮮卑族と漢族が合体したと言われる隋、唐も基本は鮮卑族の支配国家なのです。
従って隋・唐はそれまでの中国史にない華美で侵略性の強い国家となっていきます。
実際、唐は中国で始めて西を侵略した国であり成功はしませんでしたが、常に周辺国を武力と朝貢で支配服属関係においておく外交政策を取り続けた。しかしこの唐も中央アジアで力をつけた最大勢力突厥によって国内での内紛を引き起こされ、弱体化していきます。
第4段階:中央アジアの覇者モンゴルの影響を受けた時代
今日の多民族国家、商業国家の基礎が出来上がる
元、明、清、中華民国、中華人民共和国
~唐の滅亡の後、中国は再び分裂の時代を迎えますが、実はこの時期が最も遊牧民の影響が少なかった時代でした。南に拠点を持った宋はその中で中国史上初めて庶民や民間人に脚光が当たった時代でした。この時代は中央アジアでは帝国が次々と交代していった時代です。
匈奴の消滅の後、柔然が4世紀から552年まで帝国を続け、その後突厥が200年間モンゴル高原を支配します。745年からはウイグル帝国が起き、9世紀から10世紀には東の端にある契丹が制覇します。
その都度時の王朝である唐との関係を築き、契丹は唐を攻め立て、遼帝国を作り華北の一部に割譲を受けます。この遼を引き継いだのが女真族の金であり、その同盟諸国のチンギスハーンがモンゴル高原で力を付け始めていきます。
それまでの中国の遊牧民支配は常に母体である中国国土が優位でしたがこの時代初めてモンゴルによって中国は被支配という立場に入ります。それまでの確固たる中華思想が解体しはじめた時代です。
中国とは世界で最も優秀な漢民族による皇帝の為の国家であり、国民は皇帝の所有物であるといった秦代からの中華思想、徳化政策はこの時代を境に緩んでいきます。
もちろん現在でも中華思想は残り、一党独裁の支配者による国民所有の意識は残存していますが、それはそれまでの時代の残存物に過ぎないのではないでしょうか。
中国の国境はフビライハーンによって治められたチベット高原まで拡大し、それが現在の中国の国境を形作りました。従って中国とは、漢民族ではない多民族国家としてその後、継続されます。何より元の支配によって変わったのが商業国家中国です。現在でも貨幣単位が元で示されているように、元の時代にユーラシア大陸広域の通貨が統一され、商業網が拡大しました。
↓ネットに「中央アジアと中国の国境の動き」を動画で示したサイトがありました。
面白いのでクリックしてみてください。今回の記事とも連動する遊牧民の動きが見て取れます。
動画
このように時々の遊牧民の影響を常に受け、匈奴、鮮卑、モンゴルと中央アジアの支配者の力学で変化していったのが大国中国です。
しかし、常に前代の王朝のシステムを継承し、それを先鋭化させていくという方法は いかにもどの時代を取っても支配者は同郷である中央アジアの遊牧民であることを示しています。その意味で徹頭徹尾遊牧民による支配国家が中国という国家の実態なのでしょう。また別の視点でみれば時代を経るに連れ、周辺の遊牧民国家と同化し国境や違いがなくなっていったのが中国なのではないかと私は見ています。
遊牧民の国、中国という視点は、商業、政治だけでなく人脈構築や底辺に横たわる集団の有り様にまで浮き彫りにさせていきます。
今回は遊牧民の支配という視点で中国の歴史を見てきました。次回は、被支配者である庶民の側から見た中世の中国史を見ていきたいと思います。今回の記事にも登場している幇(ばん)の謎に迫ります。ご期待下さい。
参考文献 「日本人の為の歴史学」 岡田英弘著
参考地図 「最新世界地図説 タペストリー」 帝国書院
↑クリックで中国の各段階の遊牧民国家国境がわかります。
投稿者 tano : 2012年01月22日 TweetList
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コメント
投稿者 ツクシ : 2012年11月1日 19:53
インドはイギリスの植民地になるまで、「宗教対立」が今以上にありませんでした。
この世の宗教の対立の多くは近世から始まるものだと、私は確信しております。
そしてその原因は植民地の宗主国が現地民に歯向かわぬ様に、宗教対立を利用し、現地民同士を争わせる為の統治をしたのは、イギリスが非常に有名です。
そして統治の方法に限らず、『歴史の書き方』も影響を受けています。
イスラム教が仏教を滅ぼしたというには怪しいものがあります。イスラム教徒が侵入するまでに仏教は既に衰退しきっておりました。
仏教寺院の破壊にしても、イスラム教徒がやったと言われていますが、衰退した宗教施設が崩壊するのは何も戦火によるものだけではありません。
煉瓦を調達するために、廃墟になった宗教施設を解体して煉瓦を調達するのは非常によく知られた事です。
デリーの町には城郭の一部が点々と残っていますが、あれは、為政者の都市の整備の為に、古い城壁を取り壊して建材にした為です。
更に言うのであれば、「仏教が衰退した」という言葉、根付いていないという言葉も、怪しいものがあります。
ご存知かと思いますが、ヒンドゥー教徒はブッダをヴィシュヌの化身としています。ゆえに、統計上もブッダを拠り所とする仏教徒は、実はヒンドゥー教徒として統計上処理されています。
インドは政教分離の国ではありますが、事実上、ヒンドゥー教の影響力が政治の世界にも非常に強く影響されています。
必生 闘う仏教という本があります。日本人の伝記ですが、その折々でヒンドゥー教がここまで強い影響力を持つのかと、正直、とっても驚きました。
私は旅行会社で仕事をしており現地に添乗員として行きますが、デリー大学で考古学を修めたガイドから、インドの歴史は非常に捻じ曲げられているという話を良く聞きます。
非常に難しいテーマを取り上げられましたブログ主に、尊敬の念を覚えております。
資料を参考される際は、誰がいつ書いたものなのかも是非、考証する際にご検討されますと、このブログがきっと素晴らしいものになると思っております。
更新を心待ちにしております。
投稿者 うい : 2012年11月2日 22:53
>仏教は、民衆を支配するために必要だった観念
とありますが、これには甚だ疑問です。
ヒンドゥー教もそうかと言われたらそれにも疑問ですが。
釈迦も含め、当時の出家者は、単にそれぞれが抱いた疑問をひたすら追求していただけではないでしょうか?
その追求過程が、弟子にも引き継がれ、仏教においては八万宝蔵と言われるほど膨大な経典になったのだと思います。
それが、中国において整理されました。
果たして、何もかも統合側から考えていくことが、正しいのでしょうか?
記事を読む限り、それが固定観念化しているように感じられます。
宗教を考える上では、もっと視野を広くすると同時に、人とはどういうものなのか?どういう傾向にあるのか?というところに、焦点を当てた方が良いと思います。
特に根付く根付かないを論じるのであれば。
まぁ歴史は支配者の歴史しかないので、難しいとは思いますが・・・。
また、仏教を考える上で大事なのが、日本の葬式仏教は仏教に非ずという認識だと思います。
葬式仏教の認識で以って、仏教を考えると必ずズレると思います。特にインドを論ずる時は。
結論がどういうことになるのか、注目していますので、頑張ってください!