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2008年11月25日

7,8世紀の法及び制度の変遷の意味するものは?

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皆さん、法や制度ってどのようなものだと思いますか?
権利争いが生じるのを防ぐ、あるいは生じてしまっても治める役割を持っていますよね。
つまり、集団や社会を統合しようとする概念の一つであると思われます。

また、その一方で、権力者に都合よく定められた法などは、弱者は搾取されるだけで何のメリットも無く、権力者の体制を磐石のものにする為に用いられてきました。

では、過去にはどのような法や制度があったのでしょうか?
主に7,8世紀についてその形成過程を見ていきたいと思います。

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るいネットにおいて『7,8世紀の法及び制度の変遷』で述べているように、この時期の法や制度の役割は豪族間の権力争いを抑制し、秩序化を図るものであったと思われます。
この見方は間違っているものではありませんが、もう少し踏み込んで追求してみたいと思います。
以下に法や制度の変遷が分かる年表を作成しました。















































年 代主な出来事法・制度など
中国・朝鮮半島国内
562年 伽耶が滅亡  
589年 隋建国(中国統一)  
587年  丁未の役(神仏紛争)
…蘇我氏が物部氏を討つ
 
593年  聖徳太子が摂政となる 
603年   冠位十二階
604年   十七条の憲法
618年 唐建国  
645年  大化の改新乙巳の変
…中大兄皇子と中臣鎌足が
 蘇我氏を討つ
公地公民制
班田収授法など)
660年 唐・新羅の連合軍が百済を攻撃  
663年 白村江の戦い  
668年 高句麗滅亡
→唐と新羅が緊張関係に
天智天皇即位 
670年   庚午年籍
672年  壬申の乱 
673年  天武天皇即位 
674年 唐が新羅を攻撃  
676年 新羅が半島統一  
684年   八色の姓
…旧来の氏族制度を改革
685年   冠位四十八階
…親王や諸王も冠位制に
689年   飛鳥浄御原令
690年   庚寅年籍
701年   大宝律令
…律令官位制へ移行



【冠位十二階】
これは、東アジアの外圧に対抗すべく、我が国初の階級制度としてつくられ、これまでの豪族による権力争いによる世襲制(血族主義)の政治から、天皇を頂点に身分制度へと転換し、中央集権国家を目指すものであると言うのが一般的な見方です。

冠位十二階が設けられた時期は聖徳太子が摂政である時期に当たりますが、丁未の役(神仏紛争)で物部氏を討った蘇我氏が実権を握るまでになっていたと思われます。

本来、大王と婚姻関係が結べるのは、葛城氏や和邇氏などの臣姓や君姓の豪族に限られていた時代に、蘇我氏は実権を握ることができたのでしょうか?
大伴氏や物部氏のような連姓の豪族が実権を握るのではあればまだ可能性と思われますが、新興豪族といってよい蘇我氏が実権を握るのはほぼ不可能であったと思われます。

しかし、これを可能にしたのが『冠位十二階』だったようです。
世襲制(血族主義)の政治から、天皇を中心とした政治に変えること。つまりは豪族を序列化し、また氏や姓にとらわれることなく優秀な人材の登用を目指し、その官位の任命を天皇が行うことなどを定めることによって、蘇我氏自らの地位を確立=正当性の証を得ようとしたのではないでしょうか。

後の大化の改新(乙巳の変)でも分かるように、蘇我氏が実権を握ることに多少ならずとも他の豪族からの反感はあったと思われます。
このような反発する豪族の声を鎮め、政治の中心に君臨するために、冠位十二階という我が国初の階級制度を設けることで、蘇我氏は内実共に実権を握ることが出来たのだと思われます。

【八色の姓→大宝律令】
『八色の姓』とは天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した真人(まひと) 朝臣(あそみ・あそん) 宿禰(すくね) 忌寸(いみき)道師(みちのし) 臣(おみ) 連(むらじ) 稲置(いなぎ)の八つの姓の制度のことで、旧来の氏族制度を改革し、新しい国家体制に即応出来る官僚制を創造したものです。(『ウィキペディア』参照)

ここでも、やはり新たな身分制度が必要になってきました。
旧体制である天智系とは違う出自の体制(新羅系)への移行が原因ではないでしょうか。(参考:『壬申の乱』の真実から天武天皇の出自に迫る
新体制を磐石のものにするために『八色の姓』を設ける必要があった。そう考えると辻褄が合うように思われます。
(※八色の姓は後の大宝律令の中に包括されます。)

なお、天武天皇は、八色の姓において最上位の「真人」を継体天皇より数えて5世以内の世代の氏に与えられたといわれいます。
これは継体天皇の出自を探る上で一つのキーワードになるのではないでしょうか。



上記より、法や制度は勝者が己の地位を確立し、磐石にするために、勝者が勝者の論理に基づいて形成されおり、特に、この時代は豪族間の権力争いの結果、その勝者の出自の違いによって法や制度が作られてきたように思われます。

このようなの視点で、他の法や制度をみていくと新たな見方が出来るのかもしれません。

長文にお付き合いありがとうございました。m(_’_)m

by 村田頼哉

投稿者 yoriya : 2008年11月25日 List  

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