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2011年09月17日

著書分析より明らかにする日本支配の始まり~6.『騎馬民族征服王朝説』にみる天皇家の血筋と支配の手口~

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シリーズ最後は、およそ2,000年に亘って日本を支配し続けている天皇家のルーツと支配の手口に迫ります。紐解いていくのは江上波夫の三つの著書、「騎馬民族征服王朝説」「騎馬民族国家」「騎馬民族は来た!?来ない?!」です。
まずは、この説を知らない方々のために、騎馬民族制服王朝説とはどんな説なのかをご紹介します。
 
 
●一言で云うと

日本における統一国家の出現と大和朝廷の創始が、東北アジアの夫余系騎馬民族の辰王朝によって、四世紀ないし五世紀前半ごろに達成された。 

【江上1984】という説です。
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(5世紀ごろの東北アジアと扶余の位置)
 
つまり江上氏は、天皇家の起源は騎馬民族(馬を駆使する遊牧民族)だった、と宣言したのです。世に出たのは戦後まもない1949年です。この説は、我々にとってはもはや普通に受け入れられる説ですが、当時としては非常に衝撃的なものでした。なにせ、当時の日本人にとって、天皇家は日本(民族)の起源に由来する元首であり、日本(民族)を神話時代から現代に受け継ぐ民族の歴史そのものだったからです。それが、実は朝鮮からの侵略者だったというのですから。
 
さて、江上説。もうちょっと詳しく云うとどういう説なのでしょうか。今回のシリーズの内容をすべて総括したような内容になります。
 
その前に。
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(モンゴルの軍隊)               (6世紀の日本の埴輪)
 
 
●扶余系辰王=崇神天皇が、九州→大和を平定し、倭国王となった
 

日本国は倭の国と言われるが、倭人は中国江南地方の原住民で、前四世紀から前一世紀の間に九州へ到来した。縄文人の狩猟採集文化を改め、弥生文化の水稲栽培を普及し、伊都国を興して、北九州を統合したことから始まる。そこに邪馬台国という女王卑弥呼による神権政治国が興り、それが大和に移って、機内を中心とした広範囲を支配した。即ち、大和朝廷の創設である。その創設者は崇神天皇であり、古墳時代の初めである。
 
 古墳時代は、一般には前期・中期・後期の三時代に区分される。古墳前期は弥生時代と同じ文化の流れであるが、中期は馬具などの騎馬民族的文化が急に出現し、後期へと繋がるので、中期と後期をひとつにするのが妥当であり、前期・後期の二期に区分したい。その後期の初めである四世紀末から五世紀前半に騎馬民族の王家が到来して、日本の天皇家になったのである。
 
 この騎馬民族とは、東北アジアの扶余系の辰王家で、それがまず朝鮮に入り、任那・伽羅から筑紫に至る倭人の国を興し、当時、筑紫は秦王家の国とよばれた。さらに大和へ入って、日本全体を統一し、倭国王となった。その倭国から日本天皇として推戴されたのである。騎馬民族である扶余族の日本への進出は、けっして武力による征服ではない。宗教や文化の力、あるいは政治的手段によって、農耕民をうまく順化し取り込んで、平和的に支配者として推戴してくれるようにしむけたのである。いわば、無血征服である。

【樋口2003】
 
江上説が、根も葉もないものであればトンデモ扱いされ抹殺されていたでしょう。ところが、実感に即し、説得力もあったため、反対派からは執拗に攻撃(反論)されました。
 
その後、次々と反論が展開されても、江上氏は全く怯みません。逆に、再反論する中で、自説をより確かなものにしていっています。また、その後の考古学的成果により、江上説を補強する史的事実や遺物も発見されていきます。
 
中でも驚くのは、朝鮮から九州へ渡ったことを明らかにする遺物についてです。これは、当初は見つかっておらず、本人は“ミッシングリンク”と呼んでいずれ発見されるとしていたのです。それが見事に発見されたのです。
⇒詳しくは日本人の源流を探して-4参照
 
そして、発表から60年あまり、未だに有効な反論は登場していません。そして、江上説は定説になろうとしています。
 
一応、これまでの主な反論を列挙しておきます。
 
 
●江上説に対する主な反論(論点列挙)
 
朝鮮は湾刀、日本は直刀。住宅が出雲(豪族)様式。牛馬や馬飼部の登場は5世紀後半。古墳は一貫。任那は韓半島に無い。崇神でなく応神。崇神なら前期古墳にも騎馬風習。天皇は水稲耕作文化。邪馬台国が大和国家に。征服方向が逆。短期すぎる。海は苦手。朝鮮史に該当する民族無し。馬具副葬は外民族侵入による文化の断絶的変革でなくても説明がつく。副葬品の変化は伝統文化の破棄ではない。騎馬戦用武器が少なすぎる。4世紀古墳からも馬具でるべき。航海民を征服したのか。騎馬戦の痕跡が無い。ツングースはB型日本はA型。馬の遺体・埴輪数は近畿・九州より関東が3倍。辰王は存在したのか。騎馬王朝は5世紀初頭に崩壊。古墳は19世紀に大規模な修復。古墳の編年・被葬者も疑わしい。
 
  
●江上説の真髄はその史観にある
 
さて、江上氏の騎馬民族制服王朝説を理解するには、真っ先に江上氏の史観を理解する必要があります。著書には、説の解説や考古学的証拠、さらに多々の反論も掲載されています。しかし、その真髄は、史観にあります。これまで、多くの論者が彼の説を論破しようと試みます。しかし、どの反論も、個々の史的事実や遺物に対して、違う解釈をぶつけているに過ぎません。彼の史観に切り込まないため、有効な反論になりえていないのです。逆に言うと、彼の史観は、そう簡単には揺るがない確かなものだということです。
 
  
<江上氏の史観> 
 
●その1、農耕民族は変わりにくい
一般的に見て農耕民族は、自己の伝統的文化に固執する性向が強く、急激に、他国あるいは他民族の異質的な文化を受け入れて自己の伝統的な文化の性格を変革させるような傾向がきわめて少なく、農耕民である倭人の場合でも同様であったと思われること。(『騎馬民族国家』より)
 
 
●その2、騎馬民族国家も大和朝廷も二元性支配
 
二元支配の模式図
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●大陸における騎馬民族国家の支配体制(諸氏・部族・種族の編成の形)
①王家やその支族などを含めた王族系の氏・部族と、その姻族などを含め、異姓の氏・部族との並存的・分掌的存在、
②征服王朝の本族(国族)と被征服異族(土着系)との、両面的ないし重層的存在が認められる。
  
●大和朝廷の氏姓制度
大和朝廷国家の創始・発展に、天皇氏(王族)とともに関与した諸豪族に、大別して二つのグループがあった。
①第一は、世襲の職能をもって朝廷に奉仕し、朝廷に直結ないし直属した、 内的な豪族で、大和朝廷の軍事的・経済的基盤をなし、また大和朝廷を機能せしめたもの―主要には天孫天神系(姻族)。
②第二は、土着の豪族で、皇室や大和朝廷との関係は、婚姻関係などを通じて非常に親縁なものから半独立的なものまでいろいろな段階がある―大部分が国神系。
 
 
●その3、騎馬民族は頭を使って間接支配する

遊牧民自身は家畜以外に何も持っていない。しかしを持っている。人間として人間たらしめるものは頭にあるんだ。いくら資源があったって、頭がなければだめなんだ。その働きに役立つのは情報知識判断力だ。それを持てば、簡単に世界は自分のものになる。初めからそれを知っていたのが遊牧民なんです。
 
 そのやり方は家畜との生活から学んだと思うんだ。家畜を持っていけば、草原があるかぎりどこでも住める。しかし、家畜をいかにするかということが問題だ。遊牧民でいるあいだは家畜をどうしたらいちばん良いかというと、これは自然の中にいた動物、そこの草を食っていた動物なんだから、自然にしておけばまちがいないんだ。不自然にしちゃいけない。自然地帯に行って、家畜を飼うようになると、今度はそこのやり方でやるわけだ。農耕地帯に入ったら、自分たちは王侯貴族的になるだけで、百姓になるわけじゃない。支配者になるだけで、そうなったらもう戦争はいらないんだから、戦争はやめたと言えばいい。ただ騎馬民族の格好を装っていればいい。
 
 そういう流儀で、やっていくんですね。農耕地帯に行ったら、そこの王侯貴族のように土着して、そこの文化を取り入れて、そこの人間になればいいんだ。何人も奥さんをもらって自分の仲間をふやす。自分の一族をふやすわけです。三代目には血も言葉もみんなそこの人間になっちゃうんですよ。そしてそれが転々と移動していくわけでしょう。
 
 父系の方は一貫していても、母系の方は何本にもなっちゃう。いろんな血も入ってしまう。モンゴルの諺に「骨は父方から肉は母方から貰う」とあるように。だから、外交も政治も学問も、みんなできるようになるんです。何代もやっていると要領をみんな覚えちゃう。彼らにはそういう伝統がある。
 
 経済と文化は、そこの土地の人間にみんなまかせちゃう間接統治をやって、直接にはやらない。数代すると名義上の王家になっちゃう、天皇のように。トルコでもどこでも同じことですよ。たとえばカリフはイスラム帝国の名義上の首長で、実際の支配はスルタンにやらせておいても、王位を簒奪(さんだつ)することはない。
 
 遊牧騎馬民族出身の王侯・将軍たちは何をやるかというと、外交警察。広大な地域を支配していますから、軍隊といったって、警察ですね。各地に小さい部隊を置いて。これはもう、どこでもやっていますよ。チンギス=ハン軍隊の子孫がアフガンにモゴール族として現存したり、乾隆帝(けんりゅうてい)のときの清の遠征軍の子孫が新疆に残っていたりしています。
 
 彼らの中央政府の構造は簡単明瞭なもので、遼(契丹(きったん))なんかはっきりしているんですよ。軍事・警察・外交は北院の専管で遊牧民系がやる。南院というのは経済・統治ですね、漢人・渤海(ぼっかい)人などの農民系に統治と経済は全部まかせるんです。
 
 しかし、契丹国も中期までいったら、両院ともほとんどその土地の人にまかせてしまう。自分たちがその土地の人間になってもいいという覚悟ができたら、はっきりそうしてしまう。そしてそこの文化をめちゃくちゃ盛んにさせるんですよ。康煕(こうき)・乾隆(けんりゅう)時代になると、まったくそうですね。全部まかせちゃって、今までの中国の歴代の大王・皇帝たちにもできなかった大文化事業を興すわけだ。
 
 『康煕(こうき)字典』なんで、中国の字引のものすごく大きいものを作らせたり、中国のあらゆる文化を集めた『古今図書集成』を作ったり、あるいは『四庫(しこ)全書』を編んでみたり、あくまで自分たちは、あなたがた地元のために、平和のために、やるんだという大宣伝をするんですね。
 
 それがやはり騎馬民族の生き方であって、アラブでもどこでもそうですよ。支配したら今度は大がかりな文化事業をやる。だからアラブ文明とか、モンゴル文明とか、ペルシャ文明とかできるわけです。
 
古代は宗教建築の石窟・寺院・神殿・教会やペルセポリスの宮殿、ペルシアの王陵・ヴェーダ・旧約・新約・仏典・コーランといった宗教経典。壁画・磨崖(まがい)彫刻・動物意匠の金属器といった美術がそうだし、中世になりゃ、天文・暦学、医・薬学、地理・哲学・歴史といった科学全般、大蔵経(だいぞうきょう)・地図などの出版と、みんな騎馬民族が主役なんだ。
 
 もとはといえば、一介の、馬に乗って、かっぱらいやって、家畜を引き連れて草原をさまよっていた連中なんです。三、四代前までさかのぼれば、みんなそうだった。ところが、そういう人たち、騎馬民族が来なければ、知的な国家はできない。純農耕民族はどんなにやってもピラミッドのエジプトやインカ帝国のように知的な国家にはなれないんですよ
 
 今までの世界の歴史家は、騎馬民族というものは全部文化の低い未開人(バルバロイ)で、都市もなければ文字も持たない、ただ戦争ばかりして、やかいだと。征服するのはなかなかむずかしいけれども、文化も何も持たないから、ほったらかしておけばいいのだと。そういう歴史観が、ヘロドトスだってそうだし、中国の『史記』の司馬遷だってそうなんです。
 
 けれども、そういうやっかいな未開人が、農耕地帯に入ってきて、大世界帝国や大文明をつくるのはどういうことかと。しかも、そういうことが何百年とつづいて、むしろ世界史を特徴づけているのはどうしてなのか、と私は考えたわけです。

(『騎馬民族は来た!?来ない?!』より)
  
つまり、江上氏は集団の生産様式統合様式から世界観を構築しているのです。それは、東アジアにとどまらず中央アジア、欧州も含め、世界史の文明と文化を一貫して説明しています。江上氏は著書の中でそのことを次のように話しています。「私のように考えれば、ほかのいろいろな世界史観が全部消えて、一本ではっきる分かる。」
 
 
●騎馬民族による二元性支配が庶民とお上の断層を生んだ
 
騎馬民族は、朝鮮半島から日本へ、間接統治を駆使して、朝鮮半島や日本をも支配していったのです。それは、神話から倭族の系統を明らかにするで示されたように、一貫して土着の神話が温存されたことからもわかります。
   
日本においても、土着部族の文化や神々を温存し、その上にあたかも迎え入れられたかのように鎮座したのが騎馬民族発の天皇氏でした。
 
そして、その間接統治の二元性(服属支配)によって土着民の本源性は温存されます。庶民にとっては、日々の共認充足は残っているので、それさえあれば国家統合などはどうでもいい=税は納めるのでうまくやってくれ、という意識になります。おまけに、名目上は、皆が認めた強い力(武力)によって、治安は維持され、場合によっては、外国からの脅威に対しても対峙してくれるというのだから、何も言うことはありません。ここに庶民とお上という、日本人にはおなじみの二元的世界観が構築されたのです。
 
日本人=庶民が政治に無関心であり、ことに対外的な戦いには加わらず、他人任せであるという文化?は、ここからはじまり、今なお温存されているのです。
 
 
●中国での騎馬民族支配は日本とは違う
 
一方、騎馬民族が農耕民族を支配したという意味では、中国も同様です。しかし中国では日本と違い、戦乱が多く、かつ、激しく、農耕民までも戦乱に参加するような状況が見られます。
 
その違いはどこから来るのでしょうか。
 
騎馬民族支配の原動力は圧倒的な武力の格差です。日本のようなおとなしい農耕民相手であれば、ほとんど戦わずして支配が可能になるでしょう。なおかつ、島国である日本では、次なる騎馬民族がなかなか手を出せず、その渡来と支配が限定的です。島国日本は、資源や国土などの魅力が少ない上に、速い海流があり攻め難いのです。それで、2000年前の構造が、そのまま現代まで残ったのです。
 
前回の記事(山形明郷著『邪馬台国論争 終結宣言』から古代日本の支配層を探る)を踏まえると、異民族による支配は2回。といっても2回は同時代です。一つは天皇家につながる騎馬民族。もうひとつが東北地方を支配した「蝦夷(えみし)」です。これは北方から渡来したチュルク系蒙古人と考えられます。この支配は少なくとも150年続き、その間、大和朝廷の征伐で激しい戦争を繰り広げています。蝦夷の武将アテルイが降伏しなければ、今の日本列島の真ん中には国境線があったかもしれません。
 
一方、中国では、次々に騎馬民族が到来します。騎馬民族同士は、武力が拮抗するため、戦闘は激しくなります。また、農村に定着し順化していった元騎馬民族も出てきます。このような群雄割拠状態だと、騎馬民族支配は安定せず、戦争は激しくなっていくのです。
 

投稿者 kumana : 2011年09月17日 List  

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コメント

皇室や若宮ゆかりの大根焚と粕汁
明治10年頃から回虫や蛭を持込み
本百姓(小作=1町歩以上)や
水呑百姓(川原下・新田小作=1町歩以上)に
一軒々行倒を装い
群って苗床を荒し種籾を食アサリ
田畑や井戸と湧水地に糞便を撒散し
五月蝿く憑纏い盗掘や占拠を繰返し
略奪・強姦と一家離散へと追込だ族と
鉄製測量器具(15尺)などと中粒種(ジャポニカ米)持込み
木箱で苗を育て整然とした田植を行い
河川から田畑に水を導き気候に合せて調整を行い
穂が実り頭が垂れ黄金色に輝き
田が乾燥するまで収穫しない方法を教え込だ民族と
歴史や文化に生活仕様の根本が
根底から違うのは明かな筈です。
コンビニの店先や建設現場で硬貨を洗う姿を
見掛た事が有ませんか。

投稿者 環境大学新聞 : 2012年6月6日 12:55

イスラムというと宗教と石油しか思い浮かびませんでした。
こうして、金融について見てみますと新たな視点からこの地域を見ることが出来ますね。
貧しいところこそ信仰が広まる。なるほどと思いました。
ぽちっしておきました

投稿者 諸葛菜 : 2012年6月6日 22:36

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